2012年2月アーカイブ

舞台は再び千里丘陵へ。
バンパクには、もうひとつテーマソングが存在した。
「日本アマチュア・フォーク・フェスティバル」というコーナーのテーマソング。
楽曲制作と司会を依頼されたのは、1968年にザ・フォーク・クルセダースが解散したのち、ソロアルバムや作詞家として活動していた北山修。
出来上がった曲は、「戦争を知らない子供たち」。
若者自身が自己の幼さを肯定しているような、そして戦争体験で大人と若者とを二分させているような詞は、まさに万博的かもしれない。
しかし、そこには北山修の「新しいイメージの反戦歌」という思惑があったのだと思う。
加藤和彦には、「こんなもの書けるか」と作曲を拒否された。
引き受けたのは、はしだのりひことシューベルツを経て、森下次郎と第二期ジローズを組んだ杉田二郎。
北山修が書いた詞を突き返した盟友と、絶賛した朋友。
このことは、とても象徴的だ。北山修は、2人いる。
そしてさらには、その2人の北山修のあいだに言わば第三の北山修がいて、そのたったひとりの北山修は、ひとりで悩み続ける。
「戦争を知ってる子供たち」に変えるべきではないのか、「戦争を知らない大人たち」と歌うべきではないのか。
フォークソングが登場した時代背景にはベトナム戦争があって、それはこの万博開催時も続いていたし、日本の米軍基地から戦闘機が飛んでいた。
自ら被災することだけが戦争体験なのか?
「戦争は知らない」が60年代的なら、「戦争を知らない子供たち」は70年代的だ。
でもポップスターの仕事は、依頼があれば、そのコンセプトに沿い、抜群に空気を読み、その上で新しい価値観をつくることだ。
この歌は、翌年の1971年2月にジローズの歌唱によりレコード化され、万博というイベントから切り離され、ひとつの流行歌として独立する。
オリコン1位という大ヒットとともに、批判や替え歌も生まれた。
ただ、ラフでタフで自由なドクターKは、だからこそ様々な定義と有り様の存在するフォークソングというものの両極に存在できる。
42年前、フォークシンガーの姿をした若き精神科医志望の学生が、大阪万博というクランケを前にして、「戦争を知らない子供たち」という処方箋を出した。
ひとつの世紀を超え、いまも北山修は、時代という患者を臨床している。
それも、ひとつの歌なんだ。

 戦争が終わって 僕等は生れた
 戦争を知らずに 僕等は育った
 おとなになって 歩き始める
 平和の歌を くちずさみながら
 僕等の名前を 覚えてほしい
 戦争を知らない 子供たちさ

 若すぎるからと 許されないなら
 髪の毛が長いと 許されないなら
 今の私に 残っているのは
 涙をこらえて 歌うことだけさ
 僕等の名前を 覚えてほしい
 戦争を知らない 子供たちさ

 青空が好きで 花びらが好きで
 いつでも笑顔の すてきな人なら
 誰でも一緒に 歩いてゆこうよ
 きれいな夕日が 輝く小道を
 僕等の名前を 覚えてほしい
 戦争を知らない 子供たちさ
 戦争を知らない 子供たちさ


 「戦争を知らない子供たちさ」詞:北山修 曲:杉田二郎




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アングラフォークとニューロックとグループサウンズがひしめき合い、ときに融け合った、時代の転換期に、演歌歌手・藤圭子の存在はあった。
1969年に「新宿の女」でデビューし、一躍スタートなった藤圭子。
そして1970年に「新宿の女 / 演歌の星 藤圭子のすべて」を発表し、この年に4曲もシングル曲をリリースしている。
その代表曲が、御存知、「圭子の夢は夜ひらく」。
デビュー曲のイメージもあってか、藤圭子といえば新宿を思わせる。
彼女が表現するものを、演歌ならぬ怨歌と名付けたのは作家の五木寛之だが、確かに藤圭子、そして新宿の街は、人間や人生のダークな側面を大きく孕んでいる。
新宿は、いまも昔も、その華やかさとともに、「業」「欲望」「悲哀」「絶望」の濃縮還元都市である。高田渡も高校生時代、新宿に住んでいた。
都庁があろうがなかろうが、新宿は東京の中心なのである。なぜなら、絶望は人間の中心にあるものだからだ。
当時の藤圭子は、きっと、「怨歌」だの「新宿」だの何だのというイメージを重荷に感じていただろうと想像する。
なぜなら、藤圭子というひとつの表現は、芸能上のつくられたキャラクターであるだけでなく、彼女が実際に幼い頃から芸人として苦労をしてきた来し方の結果でもあるからである。
父親は、浪曲師・松平国二郎。母親は、その曲師であり瞽女の寿々木澄子。その二人の興行に同行していた少女・阿部純子。
15歳のときに一家で上京し、自分と家族の過去現在未来のすべてを背負い、藤圭子となった一人の少女の心情を考えれば、18歳で歌った「夢は夜ひらく」の歌詞に、「十五、十六、十七と私の人生暗かった」とあるのは頷ける。
「夢は夜ひらく」という歌は、園まりが1966年に歌ったものがオリジナル。以降、この歌は、50人近い歌手によって、歌詞を変えながら歌い継がれてゆく。
その中で、怨歌の名をそのまま引き継ぐように、歌謡曲を超越した哲学で、フォークソングの世界において歌を送り出したのが、三上寛だ。
そして、時代は流れ流れ、藤圭子の娘が、突如として日本の音楽界に現れ、まったく新しい音楽的価値観を打ち出したことも面白い。
どさ廻りの貧しい芸人一家、その伝統芸能の遺伝子が、新宿とはまったく違うアメリカという空気を経由し、J-POPの頂点に飛来する。音楽という芸能が、世紀や国境を超えて受け継がれてゆく。
当時、藤圭子は、ほんとうはポップスを歌いたかったという話もある。
藤圭子のもうひとつの人生、宇多田ヒカル。
宇多田ヒカルのもうひとつの人生、藤圭子。


 赤く咲くのは けしの花
 白く咲くのは 百合の花
 どう咲きゃいいのさ この私
 夢は夜ひらく

 十五 十六 十七と
 私の人生 暗かった
 過去はどんなに 暗くとも
 夢は夜ひらく

 昨日マー坊 今日トミー
 明日はジョージか ケン坊か
 恋ははかなく 過ぎて行き
 夢は夜ひらく

 夜咲くネオンは 嘘の花
 夜飛ぶ蝶々も 嘘の花
 嘘を肴に 酒をくみゃ
 夢は夜ひらく

 前を見るよな 柄じゃない
 うしろ向くよな 柄じゃない
 よそ見してたら 泣きを見た
 夢は夜ひらく

 一から十まで 馬鹿でした
 馬鹿にゃ未練は ないけれど
 忘れられない 奴ばかり
 夢は夜ひらく

 夢は夜ひらく 


 「夢は夜ひらく」詞:石坂まさを 曲:曽根幸明



藤圭子 GOLDEN☆BEST GOLDEN☆BEST 藤圭子ヒット&カバーコレクション 艶歌と縁歌 圭子の夢は夜ひらく~藤圭子RCA BEST COLLECTION 新宿の女/盛り場仁義


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    藍見澪+フォークソング研究所 -Rei Aimi + Folksong Institute-
    日本のフォークやロックの歴史を紡ぎ、現在のポップス、さらにすべての歌に繋げる実験・・・といいながら、よくわかっていません。

    http://morinokaigi.chu.jp

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