舞台は再び千里丘陵へ。
バンパクには、もうひとつテーマソングが存在した。
「日本アマチュア・フォーク・フェスティバル」というコーナーのテーマソング。
楽曲制作と司会を依頼されたのは、1968年にザ・フォーク・クルセダースが解散したのち、ソロアルバムや作詞家として活動していた北山修。
出来上がった曲は、「戦争を知らない子供たち」。
若者自身が自己の幼さを肯定しているような、そして戦争体験で大人と若者とを二分させているような詞は、まさに万博的かもしれない。
しかし、そこには北山修の「新しいイメージの反戦歌」という思惑があったのだと思う。
加藤和彦には、「こんなもの書けるか」と作曲を拒否された。
引き受けたのは、はしだのりひことシューベルツを経て、森下次郎と第二期ジローズを組んだ杉田二郎。
北山修が書いた詞を突き返した盟友と、絶賛した朋友。
このことは、とても象徴的だ。北山修は、2人いる。
そしてさらには、その2人の北山修のあいだに言わば第三の北山修がいて、そのたったひとりの北山修は、ひとりで悩み続ける。
「戦争を知ってる子供たち」に変えるべきではないのか、「戦争を知らない大人たち」と歌うべきではないのか。
フォークソングが登場した時代背景にはベトナム戦争があって、それはこの万博開催時も続いていたし、日本の米軍基地から戦闘機が飛んでいた。
自ら被災することだけが戦争体験なのか?
「戦争は知らない」が60年代的なら、「戦争を知らない子供たち」は70年代的だ。
でもポップスターの仕事は、依頼があれば、そのコンセプトに沿い、抜群に空気を読み、その上で新しい価値観をつくることだ。
この歌は、翌年の1971年2月にジローズの歌唱によりレコード化され、万博というイベントから切り離され、ひとつの流行歌として独立する。
オリコン1位という大ヒットとともに、批判や替え歌も生まれた。
ただ、ラフでタフで自由なドクターKは、だからこそ様々な定義と有り様の存在するフォークソングというものの両極に存在できる。
42年前、フォークシンガーの姿をした若き精神科医志望の学生が、大阪万博というクランケを前にして、「戦争を知らない子供たち」という処方箋を出した。
ひとつの世紀を超え、いまも北山修は、時代という患者を臨床している。
それも、ひとつの歌なんだ。
戦争が終わって 僕等は生れた
戦争を知らずに 僕等は育った
おとなになって 歩き始める
平和の歌を くちずさみながら
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
若すぎるからと 許されないなら
髪の毛が長いと 許されないなら
今の私に 残っているのは
涙をこらえて 歌うことだけさ
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
青空が好きで 花びらが好きで
いつでも笑顔の すてきな人なら
誰でも一緒に 歩いてゆこうよ
きれいな夕日が 輝く小道を
僕等の名前を 覚えてほしい
戦争を知らない 子供たちさ
戦争を知らない 子供たちさ
「戦争を知らない子供たちさ」詞:北山修 曲:杉田二郎







