アングラフォークとニューロックとグループサウンズがひしめき合い、ときに融け合った、時代の転換期に、演歌歌手・藤圭子の存在はあった。
1969年に「新宿の女」でデビューし、一躍スタートなった藤圭子。
そして1970年に「新宿の女 / 演歌の星 藤圭子のすべて」を発表し、この年に4曲もシングル曲をリリースしている。
その代表曲が、御存知、「圭子の夢は夜ひらく」。
デビュー曲のイメージもあってか、藤圭子といえば新宿を思わせる。
彼女が表現するものを、演歌ならぬ怨歌と名付けたのは作家の五木寛之だが、確かに藤圭子、そして新宿の街は、人間や人生のダークな側面を大きく孕んでいる。
新宿は、いまも昔も、その華やかさとともに、「業」「欲望」「悲哀」「絶望」の濃縮還元都市である。高田渡も高校生時代、新宿に住んでいた。
都庁があろうがなかろうが、新宿は東京の中心なのである。なぜなら、絶望は人間の中心にあるものだからだ。
当時の藤圭子は、きっと、「怨歌」だの「新宿」だの何だのというイメージを重荷に感じていただろうと想像する。
なぜなら、藤圭子というひとつの表現は、芸能上のつくられたキャラクターであるだけでなく、彼女が実際に幼い頃から芸人として苦労をしてきた来し方の結果でもあるからである。
父親は、浪曲師・松平国二郎。母親は、その曲師であり瞽女の寿々木澄子。その二人の興行に同行していた少女・阿部純子。
15歳のときに一家で上京し、自分と家族の過去現在未来のすべてを背負い、藤圭子となった一人の少女の心情を考えれば、18歳で歌った「夢は夜ひらく」の歌詞に、「十五、十六、十七と私の人生暗かった」とあるのは頷ける。
「夢は夜ひらく」という歌は、園まりが1966年に歌ったものがオリジナル。以降、この歌は、50人近い歌手によって、歌詞を変えながら歌い継がれてゆく。
その中で、怨歌の名をそのまま引き継ぐように、歌謡曲を超越した哲学で、フォークソングの世界において歌を送り出したのが、三上寛だ。
そして、時代は流れ流れ、藤圭子の娘が、突如として日本の音楽界に現れ、まったく新しい音楽的価値観を打ち出したことも面白い。
どさ廻りの貧しい芸人一家、その伝統芸能の遺伝子が、新宿とはまったく違うアメリカという空気を経由し、J-POPの頂点に飛来する。音楽という芸能が、世紀や国境を超えて受け継がれてゆく。
当時、藤圭子は、ほんとうはポップスを歌いたかったという話もある。
藤圭子のもうひとつの人生、宇多田ヒカル。
宇多田ヒカルのもうひとつの人生、藤圭子。
赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく
十五 十六 十七と
私の人生 暗かった
過去はどんなに 暗くとも
夢は夜ひらく
昨日マー坊 今日トミー
明日はジョージか ケン坊か
恋ははかなく 過ぎて行き
夢は夜ひらく
夜咲くネオンは 嘘の花
夜飛ぶ蝶々も 嘘の花
嘘を肴に 酒をくみゃ
夢は夜ひらく
前を見るよな 柄じゃない
うしろ向くよな 柄じゃない
よそ見してたら 泣きを見た
夢は夜ひらく
一から十まで 馬鹿でした
馬鹿にゃ未練は ないけれど
忘れられない 奴ばかり
夢は夜ひらく
夢は夜ひらく
「夢は夜ひらく」詞:石坂まさを 曲:曽根幸明







