エベレストのてっぺんから、植村直己はどんな世界を見たのだろう?
彼は、5月11日、いちばん高い場所から世界を見た。
美しかったのだろうか。自然の崇高さの前に、人間の愚かさは意味を持っていただろうか。
それより4日前に開かれた、第41回日劇ウエスタンカーニバル。
出演者は、ザ・タイガース、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズ、ザ・ワイルド・ワンズ、フォー・リーブスほか・・・。
交互出演に、フラワー・トラヴェリン・バンド、ザ・ゴールデン・カップスなど・・・。
その中に、頭脳警察の文字がある。
ポスターの中で、唯一の漢字、唯一の日本語である。
頭脳警察は、パンタ、トシ、左右栄一、粟野仁で結成されたバンド。
ボーカルとギターのパンタのつくる歌は、極めて直接的な闘いの歌である。
左翼活動や革命に寄り添う姿勢は、唯一無二の存在だ。
URCともGSとも違う言語。その歌たちは実際的に左翼、反体制の言葉そのもの。
頭脳警察は真正面から、「赤軍兵士の詩」を代弁し、「銃をとれ」と煽動する。観念でも哲学でもない。
赤軍派の書いた「世界革命戦争宣言」を演奏をバックに叫ぶ。
そうして活動家たちの側にいながら、しかし活動家には決してならず、あくまで音楽によって表現する。
そんな、いわば芸能界と正反対に位置する、しごく簡単な言葉で表せば「過激」な彼らが、どうして日劇ウェスタンカーニバルに出演したかはわからない。
スパイダースやタイガース、ワイルドワンズに、さらにはフォーリーブスという歌謡的出演陣の中に、日替わり出演とはいえ、どうして頭脳警察がいたのか。
わかっていることは、そのステージでパンタがマスターベーションをしてみせたことだけ。
そのときのほかの出演者、興行者、そして観客たちは何を思っただろう。
パンタの肉体から発射し、そして舞台に飛び散った白いものは、その時代と自分たちと、そしてロックンロールへのやるせなさとニヒリズムだったのか。
グループサウンズは60年代という汽車から降ろされ、内田裕也は新しい汽車に乗り移り、またべつの線路を岡林信康や高田渡やはっぴいえんどが走り、でも頭脳警察はもしかして、そうした比喩ではない、この地球上を滑走する実在の鉄道に乗り込んでいたのかもしれない。
初期からのレパートリーに、ヘルマン・ヘッセの詩を歌にした「さようなら世界夫人よ」というバラードがある。
聴衆をアジテーションする頭脳警察の、優しくも冷めたニヒルな横顔。
「でも僕等は君の魔法には もう夢など持っちゃいない」と美しいメロディとともに歌いながら、こんどは「銃をとれ!」と歌う頭脳警察は、世界への愛情で溢れている。
世界はほんとうは美しくて、人は優しくて、でも醜い戦争と差別に溢れていて、それは40年経ったいまも変わっていない。
世界はがらくたの中に横たわり
かつてはとても愛していたのに
今 僕等にとって死神はもはや
それほど恐ろしくはないさ
さようなら世界夫人よ さあまた
若くつやつやと身を飾れ
僕等は君の泣き声と君の笑い声には
もう飽きた
世界は僕等に愛と涙を
絶えまなく与え続けてくれた
でも僕等は君の魔法には
もう夢など持っちゃいない
さようなら世界夫人よ さあまた
若くつやつやと身を飾れ
僕等は君の泣き声と君の笑い声には
もう飽きた
詩:ヘルマン・ヘッセ 訳:植村敏夫 曲:Pantax's World