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リトル・R・オノ

第1回 昭和30年代初期の洋楽…
 “ロックンロール元年”の1955年


 まぼろしチャンネル流に昭和30年代の懐かしの音楽というと、今ちょっとしたブームと言われている昭和歌謡をイメージするかもしれません。それはそれで今となっては懐かしくも愛しい音楽に違いありませんが(またこの番組でも必然的に登場してくることもあろうかと思いますが)、昭和30年代当時、私の場合はひたすら洋楽でした。

 私が生まれたのは昭和25年3月なので、5才から14才までがその時期に相当します。西暦で言うと、ロックンロールが誕生したとされる1955年から、ビートルズのレコードが日本で発売される64年までの10年間ということになります。特に50年代末期から60年代中頃は、アメリカン・ポップスに心をすっかり奪われていた私にとって、黄金に輝く時代なのでした。
 一体、どんな環境の中で小学生がポップスに魅せられていくのでしょうか。

ソニー・トランジスターラジオ ソニー・トランジスターラジオ
 国産初のソニー・TR55。1955年発売。

 ひと口に昭和30年代といっても、その時代を過ごした者以外にはまるで実感が湧かないと思うので、当時の文化面生活面のトピックをいくつか挙げてみると、まず1955年(西暦で統一します)にトランジスタラジオ第一号が東京通信工業(現ソニー)から発売されています。私がトランジスタラジオで音楽を聴き始めるのはこれに遅れること7年、62年の中学1年の時です。まさに黄金色の頃です。その前年61年にアルマ・コーガンという英国人女性歌手が「ポケット・トランジスター」で「ヒットパレードを聴くの」と歌ってヒットさせました。その夏、小6の修学旅行で日光へ行ったのですが、宿に着くなり真っ先に付けたラジオから流れてきたのが「ポケット・トランジスター」でした。確か「電リク」(QR電話リクエスト)かなんかの番組でした。ということは土曜日か。同室のクラスメイト(10人くらい)は誰もラジオなど聴いちゃいませんでしたが、私は番組を毎週聴いているのでどこへ出かけても聴きのがすことはできないのです。この頃は完璧にハマッてましたから。

「ポケット・トランジスター」 「ポケット・トランジスター」
Pocket Transistor
アルマ・コーガン

 英米ともにヒットしていない、つまり日本独自のヒット曲。本国ではジョン・レノンも夢中だったという50年代からのスター歌手。66年に34歳の若さで癌で死亡。

 トランジスタラジオを手に入れるまでは、コンセントの付いてる普通のラジオ(といって今の人に分かるのでしょうか)を家族みんなで聴いていました。55年は他にも電気釜が初めて発売されたりもしています。電気洗濯機などもまだ目新しく、家庭の電化が進み始めたばかりの頃ですね。しかし都会のそれもほんの一部の金持ちの家にあるかどうかで、一般家庭での洗濯はまだ、盥に水を入れ、お母さんがウンコ座りして、洗濯板にタワシでゴシゴシやっている、そんな後ろ姿を想像してみて下さい。それが普通でした。

 さて5歳の私はロックンロールをどう受け止めたか。この年まで私は千葉の市川市に住んでいました。千葉県といっても東京に隣接した位置にあるので、ほぼ東京下町風情と言ってもいいところ。家の近くを流れるドブ川沿いを文豪永井荷風がよく散歩していた、と後年母が言っていたほどの風情(?)ではありました。

自宅の縁側で兄と  外遊びしか記憶になかったのにこんな写真がありました。市川市の自宅の縁側で兄とブリキのおもちゃで遊ぶ。55年。

でも喋り言葉の語尾が「〜だべ」となるので、東京っ子にはすぐバレる。実際、翌年、東京の世田谷に引っ越して小学一年生となるのですが、クラスメイトからは何も言われなかったのに親友の母親に「だべって、どこの言葉?」と笑われてものすごく恥ずかしい思いをしました。はっきり言って彼女は、私を田舎者と完璧にバカにしていたと思う。当時はいつも洟が垂れていたし、仕方ないか。しかし市川にいる時にはそんな話し方が当たり前だったし、当時、自宅近くのわりかし品のある幼稚園に通っていた私は、見ようによってはお坊っちゃん風情にも見えたはず。それがお遊戯の時間になると、ほかの児童たちが「さいた さいた チューリップの花が」と首を縦に大きく振りながら可愛らしく歌うなか、一人みんなに背を向けて両手を前後に大きく振りながらビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を歌い踊るロックンロール児童に変身するのでした。んなわけあるはずがなく、でもみんなに背を向けていたのは確かで、クラスの輪のなかに入ってゆくのがニガ手な内気な児童だったのでした。

「Rock Around the Clock」 「Rock Around the Clock」 
ビル・ヘイリー&ザ・コメッツ

 映画「暴力教室」の主題歌となって世界中で大ヒット。ロックンロール時代の幕開けを告げた曲と言われている。これまで、コメッツのレコードは全世界で6000万枚以上売れた。

 かく言うように、ロックンロールが誕生した年として有名な55年ですが、現都知事石原慎太郎の小説「太陽の季節」が芥川賞を受賞したのもこの年。石原の髪型をまねた“シンタロー刈り”をした若者たちが“太陽族”と不良呼ばわりされたこと(今見るとなんてことないスポーツ刈り、というよりダサイぐらい)でも有名です。まあ、5歳の幼稚園児にはどちらも意味不明な人々であったはずでもちろん記憶にありません。テレビはまだほとんどの家庭にはなく、一般ピープルは街頭テレビでプロレスを見るのを楽しみにする程度でした。もちろん私も周りの人々に和して力道山に興奮して「リキ、リキ」と声を枯らして応援しては、家に戻ってからは“空手チョップ”をやりたくて兄と“リキ役”を何度も交代して母に叱られるまでプロレスごっこをやるのでした。

 それはともかく55年の洋楽に関しては、「セレソローサ」などペレス・プラード楽団のマンボが流行っていたはずですが、ピッチリした“マンボズボン”(母曰く「チンピラの穿くズボン」)の記憶はあっても音楽は記憶にありません。家の中の記憶自体あまりなく、めんこ、べーごま、ざりがに捕り、缶蹴り、キャッチ・ボールと、とにかく毎日外で遊んでいました。夜は疲れ果てて、めし食ってさっさと寝ていたのでしょう(寝小便をして目を覚ましたことは何回も覚えていますが)。この年にヒットした「デビー・クロケットの唄」(アメリカではビル・ヘイズ、日本ではウォルター・シューマン版がヒット)は、オリジナルではなく小坂一也の歌で記憶に残っています。後に「走れコータロー」(ソルティーシュガー)を聴いて、「デビー・クロケット」じゃん、と思ったことを今思い出しました。

 翌56年から徐々にポップスにかぶれていくのですが、その後、60年前後から始まる私のポップス黄金期には、2歳上の兄と私の小遣いのほとんどは(たかが知れてはいるものの)レコードに費やされます。小・中・高と、クラスで洋楽のちょっと詳しい話しができるやつは一人も居なかったので、私と兄は、ラジオの音楽番組は欠かさず聴くようになり、FENのチャート番組にも耳を傾け、音楽雑誌「ミュージック・ライフ」を定期購読し、というように、ちょっと進んだ洋楽ファンの典型としての生活を辿ることになります。

ミュージックライフ(1956年)
ミュージックライフ(1964年)
ミュージックライフ(1956年)・ミュージックライフ(1964年)
 1937年(昭和12年)創刊。最初は「歌謡曲の投稿雑誌」としてスタート。戦時下の紙類統制令で一時休刊。ジャズ雑誌として1951年復刊する。1960年代に入りポピュラーミュージック台頭に呼応し、洋楽大衆誌として浸透していく。1964年のビートルズの単独インタビューで注目される。60年代〜80年代のポップス界を牽引していた、といってもいいかもしれない。ベンチャーズ、ビートルズなどを否応なしに経てきた“ポップス少年”の殆どが読んでいた。90年代に入って、洋楽の一般性が低下し、マニア化・専門化が進行していくのに合わせ、「洋楽の大衆化」を役割にしていた『ミュージックライフ』の存在価値が薄れ、1998年12月号をもって、60年間の歴史を閉じた。「雑誌は時代を映す鏡」とすれば、MLは大往生だった。

2003年9月12日放送開始
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