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ああわが心の東京修学旅行
第2回 新宿駅から九段まで
〜山手の住宅地域と商業地域を訪ねて〜
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前回は昭和35年頃の東京の修学旅行をデータから振り返ってみましたが、今回からは当時の旅行を再現してお伝えしていきます。
−早朝信州を発った列車は、11時過ぎに新宿駅へ到着しました。先生に引率されて中学生達がバスに乗り込みます−
「この度は当まぼろし旅行社をご利用いただきありがとうございます。バスは定刻通り新宿駅を出発いたしました。これから靖国神社までは車中からの見学となりますので、静かに説明をお聞き下さい…」
入社したてのガイドさんが緊張しながら語りかけます。
新宿エルタワー前にある『淀橋浄水場跡』碑
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・淀橋浄水場
新宿駅の西に広がる淀橋浄水場は、近代式水道施設として明治31年に開設されました。広さは10万坪あります。多摩川の水が玉川上水を通ってここまで運ばれ、浄化されたあと水道の水として新宿区・文京区・中央区を中心に12の区に配られます。現在、この浄水場を東村山という所に移してその跡地にビル街を作ろうという構想があります。もしかすると、皆さんが大人のなる頃には大きなビルが建っているかも知れませんね。
[ミニ年表]
昭和35年 |
首都圏整備法により東京都副都心計画を決定。 |
昭和40年 |
淀橋浄水場を東村山に移転。跡地とその周辺地は整地され、 |
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大半は民間に売却される。 |
昭和46年 |
京王プラザホテル(高さ170m47階)完成。 |
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以後高層ビルの建設が続く。 |
四谷見附橋と四ツ谷駅
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・江戸城外堀、四谷見附
新宿通りを左に伊勢丹(昭和8年開業)、右に新宿御苑の緑を眺めつつ、バスは四ツ谷駅近くまでやってまいりました。この駅の手前にある橋を「四谷見附橋」と言い、その下には江戸城の外堀が広がっています。今そこには国鉄の中央線が通っています。お堀の門は「見附」と呼ばれ、江戸時代、番所が置かれて人の出入りを監視していましたが、この四谷見附は寛永16年(1639)に毛利秀就によって築かれました。その跡は今も四ツ谷駅の東側にあります。ちなみに甲州街道はここから始まっています。
英国大使館
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・半蔵門、江戸城内堀、英国大使館、山手の住宅地
新宿通りの突き当たりは半蔵門、その奥は皇居です。半蔵門の名前は、この門の近くに屋敷があった忍者の服部半蔵に由来していると言われています。ここを左に曲がって内堀通りに入ります。右手には皇居の内堀の1つ半蔵堀が広がり、左には英国大使館が見えます。この英国大使館から西の一帯は「番町」と呼ばれ、高級な住宅街があるところです。ここは江戸城に近いので旗本屋敷や武家屋敷がたくさんあったのですが、それらが明治維新後山手の住宅地になりました。番町は一番町から六番町まであります。昔、旗本の連隊を大番と呼び、それが一番から六番まであったのですが、それが町の名前になっています。また番町は、戦前、「文人町」とも言われました。与謝野鉄幹、永井荷風、寺田寅彦、島崎藤村、有島武郎、有島生馬、里見クらが住んでいたからです。あと忘れていけないのは怪談の「番町皿屋敷」の舞台になったことでしょう。
昭和34年の靖国神社
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・靖国神社
新宿通りの突き当たりにある立派なお社が、靖国神社です。この神社は明治2年に「東京招魂社」という名で建てられ、明治12年に現在の名前へと変わりました。今から百年ばかり前の嘉永6年(1853)このかた、御国のために命を捨てられた方々をおまつりしてあります。昭和15年までの御祭神は、およそ17万柱に過ぎなかったそうです。それが今では250万柱になるということです。太平洋戦争の尊い犠牲がどんなに大きかったかがわかります。では、バスを降りて静かに眠られる英霊の御冥福を心からお祈りしたいと存じます。
あちらに見える銅像は、明治維新の際官軍の大将であった大村益次郎さんのものです。彰義隊の立てこもる上野の方をにらんでいて、明治21年に建てられました。この銅像は東京で一番先に建てられた銅像ということになっていて、除幕式の際いならぶ外国公使達は頭のチョンマゲをピストルと勘違いして大騒ぎをしたという話が残っています。大村益次郎さんはわが国に初めて洋式の軍隊をつくった人ですが、明治2年近畿地方を巡視中に暴漢に襲われて亡くなりました。
九段坂から神保町を望む
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・九段坂
右に見える江戸城の門は田安門と呼ばれ、戦前は門内に近衛連隊がありました。今は千代田区の運動場や学徒援護会の建物があります。[日本武道館ができたのは昭和39年]
田安門の前にある石の塔は明治4年に建てられた灯明台です。当時はここから品川沖まで眺められたそうで、今日の灯台の役目を果たしていたのです。その手前の木立の中にある銅像は、「宮さん宮さん」という日本で初めての軍歌を作った品川弥二郎さんです。
左側にある建物は「大都市会館」で、もと陸軍将校が集った偕行社です。[取り壊されて、現在跡地には都市基盤整備公団本社ビルが建っている]
右坂下の大きな建物は九段会館です。もとは「軍人会館」と言われておりましたが、今は日本遺族会が経営していてホールは音楽会などに利用されています。九段に靖国神社や近衛連隊、軍人関連施設が置かれたのは、武蔵野台地の端で東京市内を見晴らすのによい場所だったからです。
では、ここでお弁当にいたしましょう。午後は本郷から上野方面へとまいります。
(第2回 終)
調査協力:財団法人 日本修学旅行協会
この番組は、昭和30年代から40年代にかけての東京を修学旅行形式で皆さんと振り返 る視聴者参加番組です。当時実際に東京見学に行かれた方も多いと思います。その時の旅
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2002年7月19日更新
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第1回 データで見る昭和35年
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