■1966年(昭和41年)

「ウルトラQ」と「笑点」が放送開始した昭和40年代の幕開け。
福島県いわき市に、常磐ハワイアンセンターが誕生した。
モダン・フォークの若者たちが歌ってた。マイク眞木は「バラが咲いた」と口ずさみ、森山良子は「きょうの日はさようなら」と祈ってた。
歌謡界には、美空ひばりも水前寺清子も山本リンダもいた。
それから、何度もコンビを解散してきた横山やすしが、西川きよしを見つけた年。
4月11日、スティーヴン・スティルス、リッチー・フューレイ、ブルース・パーマー、そして二ール・ヤングによって、バッファロー・スプリングフィールドが結成された。
もうじきに生まれる日本語ロックの代表格バンドが音楽的に目指した仮想敵が、バッファロー・スプリングフィールドだ。
ちょっと待ってくれ、いつのまにカナダなんて国が出来てたんだ!? ついこの前まで1930年代のアメリカの話をしてたっていうのに!
とにもかくにも、そこにカナダはありました。
アメリカのロックの礎を築いたのがバッファロー・スプリング・フィールドなら、イギリスはビートルズとローリング・ストーンズ!
6月29日、ザ・ビートルズが来日。
30日から7月2日にかけて行われた日本武道館でのコンサートには、賛否両論巻き起こった。
東京オリンピックの際につくられた、日本の武道のための神聖な場所。
そんなところで外国人のロックンロールなんて!
いまでは、武道館でのミュージシャンのライブコンサートは当たり前になっているが、その始まりをつくったのはザ・ビートルズだったのだ。
前座を務めたのは、日劇ウエスタンカーニバルの舞台に立ってきた猛者たちだ。
内田裕也、尾藤イサオ、寺内タケシとブルージーンズ、ジャッキー吉川とブルーコメッツ・・・。
日本において、欧米のポップスを手本に、カントリー、マウンテン、ロカビリー・・・と様々な音楽を実践してきたミュージシャンたちが、ザ・ビートルズを迎え、そしてその記念すべき公演を盛り上げたのだった。
エレキの神様、寺内タケシも、ビートルズが来たからにゃあオープニングアクトの一人である。
ザ・ドリフターズも30日と1日のみ前座を務め、まだ弟子入り前の志村けんは客席で観ていた。
ほんじゃ、イギリスがビートルズなら、日本はスパイダース!
前年の1965年に「フリフリ」でレコードデビューしたザ・スパイダースは、日本で初めてのロックバンドといえるかもしれない。
また、最初のグループサウンズ(GS)ともいえるだろう。
この頃から、GSバンド、すなわち「ボーカル&インストゥルメンタル」の編成によるロックバンドが急増した。
それまでの作詞家と作曲家がつくった曲を歌手が歌う、そうした歌謡曲の常識を覆すムーブメントだ。
一方、横浜では、バー「ゴールデン・カップ」で、平尾時宗とグループ・アンド・アイというバンドが結成された。
アメリカ帰りの平尾は翌年よりデイブ平尾と名乗り、バンドの名もザ・ゴールデン・カップスと変わった。
横浜という東京とはまた違った異国情緒の雰囲気が醸し出される土地で、本牧あたりの地元イズムがプンプン匂って、ロックンロールと融け合ってた。
シンガーソングライターの登場と同時に、GSバンドの誕生。日本のポップスが変わってゆく。
しかし、それでもやはり、リリースされる日本語の曲は作家がつくるケースが多く、それらはどうにも歌謡曲チックだった。
そうした中、ゴールデンカップスは、テレビではオリジナル曲を歌い、コンサートではアメリカやイギリスのロックやR&Bを歌ってた。
どうやら、時代が変わるのは随分と慎重で、なかなかに「自分の言葉で歌う」という本来当たり前のことがなされない。
欧米の曲に、日本語の詞をのせる。
それは、かまやつひろしのつくった「フリフリ」のように、確かに実行できるはずなのに、音楽業界としては免疫が強い。
どうしても、作詞家と作曲家がつくった、「ロック風歌謡曲」ができあがってしまうのだ。
もちろん、いまになれば、それらはひとつひとつ素晴らしい曲だけど、当時のミュージシャンたちにしたら、じれったいにもほどがあったろう。
だから、ずっとずっとあと、2003年に、NHKの音楽番組で、忌野清志郎が憧れのゴールデンカップスと共演したときは、何かつまらない理屈なんかいらなくて、歌謡曲っぽいものだろうが、ロックっぽいものだろうが、いい音楽はいいんだって思った。
少年時代の清志郎にとって、「長い髪の少女」を歌うゴールデンカップスは、確かにロックバンドだったんだから。

寺内タケシとブルージーンズ ツイン・ベスト
寺内タケシとブルージーンズ / 寺内タケシとブルージーンズ ツイン・ベスト

THE GOLDEN CUPS Complete Best
ザ・ゴールデン・カップス / THE GOLDEN CUPS Complete Best"BLUES OF LIFE

さて、フォークシンガーたちが現れる以前の、3人のシンガーソングライター。
1人は丸山明宏(いまの美輪明宏)、前回「ヨイトマケの唄」とともに紹介した。
ではもう2人はというと、それは加山雄三と荒木一郎だ。
GSブームの幕が開くとき、この3人はそれぞれ勝手に、そして当然のごとく、歌をつくりそして歌っていた。
フォークでも、ロックでも、GSでもなく。
加山、荒木、丸山の3人は、「歌謡曲でかまわない」という前提上、それぞれの歴史に基づいてシンガーソングライターだった。
もっとも、シンガーソングライターなんという言葉が生まれるのは、ずいぶんあとのことだ。
フォーク黎明期以前のシンガーソングライターとして、この3人を並べてみたが、もうひとりいるかもしれない。
ムッシュだ!
かまやつひろし(いまのムッシュかまやつ)も加えて、この4人が、日本におけるポップスの先駆け的存在かもしれない。
丸山明宏はシャンソン、加山雄三はロック、荒木一郎はブルーズと、それぞれのルーツがあったと思う。
では、ムッシュは?
彼はこの国のポップスの過去現在未来を通じての生き字引。
しいて言えばジャズとカントリーとロックンロールかもしれないが、すべての音楽が、かまやつひろしのルーツと言えるはずだ。
しかし、加山雄三という人物は、あまりにも加山雄三だ。
加山雄三は、どうしようもなくポップスそのものだ。
その明るいイメージは、日本人に茅ケ崎や湘南地域への幻想と重なっていった。
鼠色の砂浜、淋しい漁師町、そうした茅ケ崎の素顔に、加山は化粧を施していったともいえる。
ちなみに1965年に開業したパシフィックホテル茅ケ崎、そのボウリング場でちょっとしたボウリング上手で名を馳せていた少年、それがのちの桑田佳祐だった。
一方、荒木一郎は現在、テレビなどに登場しないこともあってか、どうしても暗いイメージがある。
陽の加山と陰の荒木。
ベンチャーズばりにエレキギターを弾き、深い声を響き渡らせる、そんな加山雄三に対し、ブルージーな荒木一郎は、つくづく闇夜と酒場が似合う。
これまでウディ・ガスリーに始まり美輪明宏まで、「さすらった」人たちの歌がそこにあった。
しかし、この二人、加山雄三と荒木一郎は、どちらも二世芸能人である。
「さすらっていない」二人・・・さすらっていないからこそ表現できた華やかさがあった。
個人的には、加山雄三は同じ茅ケ崎の出身ということと、荒木一郎はアニメ「あしたのジョー2」の主題歌が大好き。
ひょうひょうとした加山雄三は、過去現在未来を通じて面白い。なぜ、あんなに明るいんだ。
その明るさとは対極に、いま私たちは、荒木一郎を観ることができない。
いま、荒木一郎は、どこで何をしているのか。
歌っているのか。どんな歌を口ずさんでいるのか。
私は聴きたい。荒木一郎のブルーズを。
だって、すっごくかっこいいでしょ、あのシブい声!

グレイテスト・ヒッツ ~アビーロード・スタジオ・マスタリング
加山雄三 / グレイテスト・ヒッツ ~アビーロード・スタジオ・マスタリング

ゴールデン☆ベスト
荒木一郎 / ゴールデン☆ベスト

そしていよいよ、ザ・フォーク・クルセダースが走り出す。
世のGSブームをよそに、フォークシンガーたちが、その魂を青い空に放り投げる。
かっこいいグループサウンズのあんちゃんたちが、芸能界において成し得なかったことを、新しい音楽と言葉の騎手たちが実現する。
しかし、フォーク・クルセダースから始まるそれらのフォークやロックは、どうにも皮肉っぽく、斜に構えていて、かわいげのない世界だったのだ・・・!

きょうのエンディングテーマは、「君といつまでも」と「空に星があるように」。
おやすみなさい。

Author


    藍見澪 -Rei Aimi + Folksong Institute-
    「フォークソング」という言葉の意味を再定義し、日本のフォークやロックの歴史を研究、ひいてはすべての歌に繋げる実験・・・のつもり!

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