ようやく話が日本に行くその前に、もうひとり、忘れたくない歌い手がいる。
様々なアメリカ音楽の礎は、黒人奴隷たちが厳しい労働と差別の中で歌ったブルーズである。
日々の営みから自然にこぼれ落ちるものこそ、ほんとうの言葉であり、ほんとうのアートだろうと思う。
ブルーズはフォークソングに影響を与えながら、またロックンロールの大事な遺伝子であり、そしてブルーズ独自の進化も遂げていった。
長い歴史の中で、ロバート・ジョンソンからBBキングまで、キラ星のように輝くブルーズマンたち。
その中で、ウディ・ガスリーから高田渡までのフォークソングの流れ、そこに最も強く影響を与えているブルーズマン。
ピンポン玉が飛び跳ねるような、楽しいリズム。ギターの弦が笑っているみたい。
ミシシッピ・ジョン・ハート。
せっかく1965年までやってきたけれど、時は、いったんぐっと遡る。
■1928年 / 昭和3年
アメリカはミシシッピ州、アヴァロン。
農作業をしながら、或いは皆の前で歌う、ちょっとブルーズが自慢の男がいた。
ジョン・スミス・ハート。
古い音楽が好きだった。アメリカの古いやつ。
べつに有名になろうとか、ひと山当てようとか、そういうのじゃなくて、ジョン・スミス、歌ってた。
それが自然なことだったから、人間は歌が好きだし、だからそうしていただけ。
ところが、ひょんなことから、レコードを録音することになって、びっくり!
オーケー・レコーズっていう会社だ。メンフィスとニューヨークでレコーディングをした。
芸名は、ミシシッピ・ジョン・ハート。どうだい、いい調子だね。
だけどあんまり売れなくて・・・時代はアメリカ大恐慌。オーケー・レコーズも潰れちゃった。
というわけでジョン・ハートは、畑に戻っていった。
それまでのように、小作人しながら、ときどき歌う、そんな人生に戻ったのだった・・・。
■1963~1966年 / 昭和38~41年
時は過ぎ・・・。
1963年。
フォークミュージックの研究家、トム・ホスキンズは、ミシシッピ州アヴァロン辺りを歩いてた。
ジョン・ハートの家を探していたのだ。
ちょうど60年前にW.C.ハンディが、ミシシッピ州のデルタ地帯で、ブルーズを「発見」したのと同じように。
"Avalon, My Home Town...."
確かに、ミシシッピ・ジョン・ハートは「アヴァロン、我が故郷」と歌ってる。このあたりに間違いない。
やっと見つけたジョン・ハート、「あ~、そりゃ、おらのことだよ~」
まだギターの腕も、陽気な喉も、健在だった。
こうして再びミシシッピ・ジョン・ハートと名乗り、都会に赴いた。
レコーディングやコンサートをし、フォーク・リバイバルの重要人物となった。
今度のレコード会社は、ヴァンガード・レコーズ。
ウディ・ガスリーやピート・シーガー、ボブ・ディラン、それからレッドベリーと、どんな話をしたのだろう?
4年間。
2度目のプロミュージシャン期間も、たった4年間だった。
1966年、74歳で天に召された。
有名になろうとか、一発当てようとか、メッセージを伝えようとか、世界を平和にしようとか、彼にはそんな気持ちなかっただろう。
さて、ここで問題です。
ジョン・ハートがミュージシャンだった、ブルーズマンだった期間は、どれだけでしょう?
最初の1年間と、最後の4年間を足して・・・。
No,No,No....!!!
ギターを触った9歳から、死ぬまでの、65年間の芸歴さ!!
きょうのエンディングテーマは、ミシシッピ・ジョン・ハートで、"Nobody Cares For Me"。
「誰も私を気にしない」・・・ぴったりの曲でしょう!