アカデミア青木
第3回 麻雀が熱かった頃
高度成長期、パチンコと並んで男性サラリーマンに人気のあった麻雀。近頃元気がないようだが、当時はほんとに熱かった。麻雀復活への祈りを込めて、今回の昭和のライフでは「麻雀」を取り上げる。
麻雀は中国発祥の遊戯であるが、日本に伝来したのは明治末になってからと言われている。大正13年には日本初の麻雀店「南々倶楽部」が東京・芝にできたが、本格的な普及が始まったのはここの店主が昭和2年に銀座に「南山荘」という店を開いてからという。南山荘は三大新聞社から近いこともあって記者や文化人などのたまり場となり、麻雀はまず当時のインテリ達から広まっていった。その代表的な人物が、日本麻雀連盟を結成した作家の菊池寛であった。彼は自らが経営する文芸春秋社で麻雀雑誌や麻雀用品の販売を手掛け、戦前の麻雀ブームをリードした。しかし、それも第二次大戦によって途絶することになる。
(中国〜昭和30年代の麻雀史に御興味のある方は、千葉県夷隅郡岬町の麻雀博物館をお訪ね下さい)
戦後、麻雀は賭博色の強い遊びとして再興した。占領期の雰囲気は、阿佐田哲也原作の映画『麻雀放浪記』(昭和59年公開)でも描かれているように、暗くすさんだものであった。戦前のような明るさが戻ってくるのは昭和20年代半ば過ぎのことで、26年の新聞を見ると官庁でも若手クラスを中心に「庁内麻雀」が行われていたようだ。当時の麻雀店は広さ5坪、卓数5が標準的な大きさ。開業の費用として、1卓につき1万1千円(牌1組5千円、卓本体並びにイス4脚のセット6千円)、別に造作費・看板・接待用什器に1万円かかるため、6万5千円(公務員の初任給10ヶ月分)を要した。料金は1卓1時間で40〜60円。だだしその半額が入場税として納税された。
戦後の復興&経済の発展が進むにつれて都内の麻雀店の数は順調に増え、30年には1230、35年には1438となった。40年以降の動きは表1にまとめてある。経済企画庁の『独身勤労者の消費生活』にある麻雀の月間実施率を見ると、40年代前半は24%前後、40年代後半は27%前後と安定している。46年、49年、52年の景気後退の年にも大きく落ち込むことはなく「不況に強い娯楽」だった。また、20代男性の実施率を見ると常に40%を超えており(この間の女性の実施率はわずかに2〜3%)、「大人の男性の娯楽」といえた。とりわけ会社の寄宿舎・寮に住む男性に愛好者が多く、表2もあるように、43年以降自宅や下宿から通勤する者の値を上回った。麻雀に参加するメンバーを集めやすかったことや、会社の上下関係が退社時間後も続いていて、いやでもなかなか断れなかったという事情があったのだろう。
麻雀店の数は53年にピークに達し、全国で3万6千店余りになった。各地域の店数は、北海道1220、東北1157、東京9541、東京を除く関東6427、中部4682、近畿7273、中国1828、四国958、九州3087。全国に占める東京の割合は26.4%。43年から一貫して低下し続けており、麻雀が全国に広まっていく様子がわかる。麻雀の全国展開を助けたのは、大学街の麻雀店である。地方出身の下宿生は、部、サークル、ゼミ、クラスの友人と卓を囲む機会が多かった。学業と共にみっちり4年間麻雀の修練を積んだ彼等は、地方に戻って職場麻雀の中心となった。その活躍に敬意を表し、当時の東京の大学街の主要麻雀店の一覧を表3として掲げておく。
さて、麻雀店は54年以降減少へと転じるが、その原因は複数あるようだ。まず、「過当競争」。この問題は既に52年頃表面化した。東京都麻雀業組合連合会が組合員にアンケート調査したところ、1日の平均利用卓数が50%に達しない(60〜70%が採算ベース)という回答が4割以上あった。つまり、組合員の4割が赤字経営ということになる。麻雀店は翌年も増えており、経営状況は更に悪化したと見ていいだろう。次に「週休2日制の普及」がある。オフィス街の麻雀店は、会社帰りのサラリーマンがお客である。週休2日の導入で休日が増え、しかも平日の残業が増えることになれば、それだけお客が麻雀をする時間が減ってくる(上記調査によると客の遊戯時間の平均は3時間)「半ドン」の土曜の午後などは結構店が賑やかだったのに、それがなくなるのはかなりの痛手である。少しでも損失を減らすため土日を休店する店も増えた(上記調査によると都内の1ヶ月の平均営業日数は23日)が、営業日数の減少により初期投資の回収が遅れて、長期的には経営を圧迫していった。
他店との差別化を図り過当競争にうち勝つため、麻雀牌を自動的に配列させる機械仕掛けの「全自動麻雀卓」を導入する店が52年頃から出始める。全自動麻雀卓は昭和48年に発明されたが、商品化されたのは『パイセッター』(現・日本ロードーパッカー)が第1号で昭和52年春に発売された。その後56年にかけて、『マグジャン』(都島興業)、『オートジャン』(オート・ジャン)、『雀吉』(新日本物産)、『雀夢』(かきぬま)、『雀王』(フクタニ)、『鳳凰』(マツオカ)などが売り出された。59年には全国の卓の約4割が全自動となった。更に60年の料金改定で「全自動卓料金」が新設されると、これまでサービスとして導入した全自動卓に採算面での裏付けが得られるようになり、一気に普及が進んだ。学生街の麻雀店で全自動卓が目立つようになるのも、この頃からである。
このような業界の努力にもかかわらず、麻雀の退潮は止まらない。54年の第2次石油危機以来の低成長経済の下、サラリーマンは余暇を自己啓発や健康づくりに向け始めた。会社のツキアイは大切だが、煙草の煙で空気の悪い麻雀店で麻雀をするのは健康に悪いし時間の無駄と見たのだろう。更に若手からは「『会社人間』にはなりたくない」という声が上がり始める。高度成長期に会社のために粉骨砕身、家庭を顧みなかった父親を反面教師として、会社より家庭を尊重して退社後は真っ直ぐ帰宅する面々も現れた。また、会社の寮も「相部屋」から「1人部屋」にする方が求人に有利ということで、大企業を中心に1人部屋化が進んだ。結果寮内での上下関係も以前に比べて希薄となり、麻雀三昧とはいかなくなった。全て麻雀にとって逆風である。
こうして見ていくとお先真っ暗であるが、ささやかな希望もある。10代男性の参加率は59年以降も安定しているのだ。大学で麻雀を始める者が程々いるからだろう。平成12年に「13.5%」という数字があるが一時的な落ち込みであって欲しい。学生麻雀は麻雀復活の狼煙の種火なのだから。
[参考文献
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『麻雀博物館大図録』竹書房 平成11年
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『月刊近代麻雀』昭和48年4月、53年12月〜54年4月号
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『麻雀新聞』昭和52年〜57年 マスコミ文化協会
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『警察白書』昭和43年〜平成12年
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『警視庁の統計』昭和42年〜平成12年
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週刊朝日編『続・値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社 昭和56年
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『独身勤労者の消費生活』経済企画庁 昭和40年〜51年
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『レジャー白書』昭和59年〜2001年(財)自由時間デザイン協会]
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2002年7月16日更新
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