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アカデミア青木

ボウリングの日(6月22日)特別番組
波瀾万丈ボウリング


 高度成長期、大ブームで列島を席巻したボウリング。今回はその歩みをデータと写真を交えて眺めてみたい。
東京ボウリングセンター
当時の東京ボウリングセンター
(現在は吉祥寺第一ホテル内に移転)
[写真:日本ボウリング振興協議会]

 ボウリンクはいつ日本に伝来したのか。現在、最古の記録が文久元年(1861)6月22日付の長崎の英字新聞にあるため、6月22日が「ボウリングの日」とされている。ところがボウリングが本格的に普及し始めるのは第二次大戦後のことで、駐留軍の兵士の娯楽として盛んに行われていたのに刺激を受けた増泉辰次が、昭和27年12月に民間第1号のボウリング場「東京ボウリングセンター」を神宮外苑に開業したのがその嚆矢である。 建物は茨城県にあった格納庫の廃物利用で、レーンの数は20。コーラやハンバーガー、ホットドックの売店、イタリアン・アイスクリームの場内工場も備えていた。「スポーツ鹿鳴館」を目指して会員制を採用し、中流以上の自由業、ビジネスマンをターゲットに会員を募集したが、高い年会費が敬遠されて3分の2以上を臨時会員の米軍関係者が占めた。このため経営は1年足らずで破綻し、経営権は椛謌黹zテルへ移った。その後積極的な宣伝策によって経営は安定し、学生ボウリング連盟(後の日本学生ボウリング連盟)や社会人ボウリング連盟(後の日本ボウリング連盟)の活動の中心地となった。

日本最古の手動式ピンセッター
東京ボウリングセンターで使われた
日本最古の手動式ピンセッター
(吉祥寺第一ホテル内にて展示)

 ボウリング業界飛躍のきっかけとなったのはピンを自動的に並べる「自動式ピンセッター」の導入で、昭和36年6月、東京の後楽園ボウリングセンターに初めて登場した。それまでは「ピンボーイ」と呼ばれる係員が手作業でピンを並べていて、東京ボウリングセンターでは2交代50人が働いていたという。スピーディーにプレーができる自動式ピンセッターは好評を博し、1ゲーム250円(当時のビール大ビン1本125円)にもかかわらず後楽園には昼夜の別なく客が押しかけ、5〜6時間待ちになる程の繁盛ぶりだったという。この成功をきっかけに全国各地でボウリング場の新設が続いた。同年7月に近鉄が大阪ボウリングセンターを、12月には鐘紡がカネボウ福岡ボウリングセンターを開業するなど、レジャー関連企業のみならず紡績系企業までもがボウリングに参入するようになった。このような形でボウリングは、東京オリンピック以降企業主導の大型レジャー産業へと変貌し、ボウリングセンター(ボウリング場)の数も年々増えていった。(表1)

      

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