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 当時の顧客の中心は学生や若者といった「新有閑階層」が占めていたが、ボウリングが青少年の非行の温床になるという非難も起こり出した。昭和38年10月の警視庁の調査で、一部の業者が300点満点者に乗用車やハワイ旅行を出していたことが判明、「大会賞品が著しく射倖心を煽る」として高額商品の提供や深夜営業の実施を自粛するよう業界に求めた。更に39年1月には、当局が「風俗営業法」の対象にボウリングを加える意向を示した。これに対して業界は自主規制で対抗、40年5月に「自主規制3原則」を定めた。その内容は、1.営業時間は午前0時を越えてはならない。但し東京においては土曜、祭日の前日は若干の延長はやむを得ない。2.賞品提供の全面的撤廃。ただし、特別行事としてのリーグ戦においては、カップ、トロフィー、盾、メダル、賞状に限られ、市価5000円を越えてはならない。3.未成年者の深夜入場禁止と深夜の酒類販売の禁止。午後11時以降の満18歳未満の入場禁止。更にこの年の12月、都内の深夜営業の例外規定を廃止して、深夜営業を完全に禁じた。これにより問題点はぼぼ解消され、業界は「健全なスポーツ」色を前面に押し出すようになった。
 昭和40年10月、東京12チャンネルが「ボウリングの魅力」を3ヶ月間毎週放映し、健全なファミリースポーツの印象をお茶の間に広めるなど、次第にテレビでボウリングが取り上げられるようになると、ボウリングがスポーツか娯楽かの議論が沸騰し、「プロ・アマ問題」が重要な課題として扱われるようになる。39年5月に設立されたボウラー団体「全日本ボウリング協会」は日本体協加盟を目指して「アマ規定」の整備を進め、41年7月に「アマチュア資格審査委員会」を設け、翌8月にはプロ行為を行ったとして10人の「トップボウラー」を除名した。しかし、ボウリング人口の増加に伴いトップボウラーの名声・実力を金銭で評価しようという動きが絶えず、12月には日本ボウリング場協会が、「日本プロボウリング協会設立準備委員会」を発足させる。そして、42年1月に「日本プロボウリング協会」が設立されて、19人の男子プロボウラーが誕生した。女子プロボウラーが誕生したのは44年9月のこと。須田開代子、中山律子、並木恵美子ら13人が第一期生である。ボウリングボールの貿易をしていた商社のOLだった須田は、商品知識を身につけるために39年頃ボウリングを始め、2年後に米国で行われる大会の日本代表となる。3年連続して日本代表として渡米して3回目に準優勝。帰国後女子プロ誕生テストで1位通過して、OLからプロへ転身した。ライバル中山律子と様々な名勝負を演じ、後に日本プロボウリング協会副会長を勤めている。44年9月の女子プロ誕生記念大会では、中山律子がテレビ初中継にふさわしい笑顔で優勝し、「さわやか律子さん」のキャッチフレーズでCMにも登場した。また、中山は45年8月に女子初のパーフェクトゲームを達成した。並木恵美子は46年に17勝、賞金1000万円を突破してマスコミの話題をさらい、大会スポンサー数を急増させるきっかけを作っている。
須田開代子氏愛用の品
故須田開代子氏愛用の品々
[写真: 日本ボウリング振興協議会]

 この時期、流行に敏感な玩具業界は、ボウリングを取り入れたゲームを発売した。中嶋製作所「ウルトラボウリングゲーム」、野村トーイ「ファミリーボーリングジャンボ」、大和玩具「ワンタッチボウリング」、バンダイ「フレンドボーリング」、米澤玩具「ダイヤモンドボーリング」などで、いずれも細長い板にミニチュアサイズのボウリングピンを配置して、板の端からボールを転がして倒すというゲームで、45年秋に相次いで発売された。私も近所の友人の家で何度か遊んだことがある。


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