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「ポップス少年」タイトル

リトル・R・オノ

第2回 反抗する若者たちの時代、到来…1956年


「ハートブレイク・ホテル」

 1956年はエルヴィス・プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」でブレイクしたエポック・メイキングな年として認識されていますが、実際はどうだったのでしょうか。当時新しいタイプの歌謡曲として、「もーしもーしベンチでささやくお二人さん」(曽根史郎「若いお巡りさん」)とか、「捨てちゃえ、捨てちゃえ、どうせ拾った恋だもの」(コロムビア・ローズ「どうせ拾った恋だもの」)のような曲がヒットしていました。そんな国で、ネバッこくアクの強いエルヴィスのヴォーカルを受け入れる素地はあったのでしょうか。あの凄まじいエネルギーを受け止められるような感性も肉体もまだ日本人は、ごく一部の人を除いては持ち合わせていなかったんじゃないかと思います。大人が眉をひそめる音楽を日本の若者たちが「これこそ、オレたちの音楽だ」といきなり飛びついたわけではないのですね。そこはアメリカとはちょっと違う。

「G.I.ブルース」 『ミリオン・セラーズ…リトル・リチャード』
Million Sellers… Little Richard

 アメリカではシングル未発売。この曲の前にカンツォーネの「オー・ソレ・ミオ」の焼き直し版「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」を全世界で大ヒットさせ大人の歌手に。その後「サレンダー」という「帰れソレントへ」の焼き直し曲で“大人化”に拍車が掛かり、完璧に不良から脱皮。私はいずれも好きになれず、入隊前のエルヴィスにのめり込む。

 で、その代わりと言っちゃあ何ですが、本家エルヴィス版にあまり遅れることなく、ウエスタン歌手の小坂一也が「ハートブレイク・ホテル」を日本語でカバーします。当時の私の頭には残念ながら、こちらの、アク抜きヴォーカルで「恋に破れた若者たちが」と歌う小坂バージョンの記憶しかありません。エルヴィスが死んだ時ジョン・レノンが「私の中でのエルヴィスは入隊と同時に死んだ(58年3月に徴兵)」と言いましたが、私の場合、彼の一番凄みのあった時代は体験できず、除隊後の「G.I.ブルース」(61年)でようやくちょっと好きになります。レノンは私より10才上で40年生まれ。15才という最もセンシティブな時期にエルヴィスを体験し、プロを目指します。

私は62年に『プレスリーのゴールデン・レコード(Elvis' Golden Records)』(サブタイトル「プレスリー・ステレオ・アルバム第3集」)という56年と57年のヒット曲14曲を収めたアルバムを購入し、その圧倒的なヴォーカルに感動し、遅まきながら入隊前のエルヴィスに惚れ込んで行きます。

『プレスリーのゴールデン・レコード』

『プレスリーのゴールデン・レコード』
Elvis' Golden Records
 「ハートブレイク・ホテル」を始め1956年と1957年の全米1位曲9曲がすべて収録。後にこのアルバムは『エルヴィスのゴールデン・レコード第1集』とタイトルが変わり、同シリーズで『第2集』『第3集』も発売。そう言えば昔はエルヴィスではなくプレスリーと言ってたっけ。

 さて、55年下期の芥川賞小説「太陽の季節」(正確には翌56年1月に受賞)は、この年の5月に長門裕之と南田洋子主演で映画化されます。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が主題歌のアメリカ映画『暴力教室』が前年に封切られた時もそうでしたが、映画『太陽の季節』も青少年の非行に繋がるとのことで、上映拒否の映画館が続出したと言います。またこの年、ジェームス・ディーンの第2作目の『理由なき反抗』が封切られます。それまでは大人中心の世界しか存在しなかった文化面に“若者の領域”が少しずつ形づくられていくと言えばよいでしょうか。

 とはいっても、小学一年生の私にはそんなこと感じる資質が備わっているはずもなく、興味あるものといえば、野球に相撲、プロレス、漫画雑誌(『月刊少年』ではこの年「鉄人28号」が連載スタート)、メインは相変わらず友達との外遊び。しかし、夜の時間帯が大きく変化します。テレビが我が家にも鎮座することになったのです。ちょうどアメリカ製テレビ映画の放映がこの年に始まります。最初に夢中になったのは“ターザン役者”ジョニー・ワイズミュラー主演の「ジャングル・ジム」でした。「ドンドコドンドコ、ドンドコドンドコ」という太鼓の音でオープニングが始まると、ワクワクワクワク胸がざわついてきて画面に釘付けになるのです。11月には、超人気番組になる「スーパーマン」や「名犬リンチンチン」なども始まり、私もそうですが日本の少年たちがアメリカ文化に徐々に侵食されていくのですね。

自宅前での私  東京都世田谷区深沢の自宅前での私。1956年4月、入学式に行く直前に撮影したもの。区立の小学校なのに制服らしきものを着ているが、このとき以外に着た覚えがない。

 長時間テレビを見ると眼が悪くなると言われ、我が家でのテレビ鑑賞は、土曜日以外は早めに消されてしまいました。テレビがついてない時は、必然ラジオの音楽番組を聴きはじめるようになるわけです。といっても、洋楽をかける番組がたくさんあったわけではありません。ビクター提供の「S盤アワー」とコロムビア提供の「L盤アワー」、この年に始まったポリドール提供の「P盤アワー」などは、それぞれレコード会社のレコード番号をタイトルに付けた一社提供の番組なので、選曲にバリエーションがなく毎週同じ曲がかかったりするわけです。

本邦初のチャート番組という触れ込みでスタートしたのが、文化放送の「ユア・ヒット・パレード」。前年55年10月から日曜の夜に始まりました。映画音楽がチャートを占めていたことと、チャートの変動があまりなかったことを思い出します。映画『エデンの東』のテーマ音楽は3年間ぐらい1位にいましたから、今ではちょっと考えられません。映画のテーマ音楽というより、上映の直前に事故死したジェームス・ディーンのための葬送曲というか鎮魂歌のような意味合いの曲となってしまったからでしょう。私の家で初めてオーディオ・プレイヤー(当時は電蓄と言った)を買った60年、遅ればせながら「エデンの東」のシングル盤も買い揃えるのです。

「エデンの東」 「エデンの東」
East of Eden
ヴィクター・ヤング楽団
 散々「ユア・ヒット・パレード」で聴いて飽きていたはずなのに何故レコードがあるのだろう。おそらく5才上の長兄が買ったのだろう。長兄はポップスには興味が行かず、映画音楽→ミュージカル→オペラ及びクラシックという嗜好に行く。63年に映画がリバイバルされたときに懐かしくなって買ったのかも知れない。

 この年の曲でよく憶えているのはドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」、あとマンボの後に流行ったニュー・リズム“チャチャチャ”の「チャチャチャは素晴らしい」でしょうか。エンリケ・ホリン楽団の演奏で「ワンロケ、ツーロケ、チャッチャッチャ」と聴こえる歌がとても軽快で気持ち良いものでした。日本では雪村いづみがカバーしていました。「ケ・セラ・セラ」はぺギー葉山がカバーと、この時代はオリジナルとカバーが必ず共存しているのです。

他に変ったヒット曲で、アーサー・キットの「ショー・ジョー・ジ(Sho-Jo-Ji)」があります。日本の童謡「證城寺の狸囃子」の英語カバーです。現在でもCMで流れている「マルコメみそ」のBGM、あれがこの曲のイントロなのですね。ドラが鳴り、“中近東寄りの東洋”を感じさせるアレンジに、「ショー、ショー、ショージョージ、ショージョージ・イズ・ア・ラクーン」と歌われます。「ショージョージ」はお寺じゃなくアライグマ(raccoon)のことなのですね。途中バック・コーラスだけになり「マーケルナ、マーケルナ、オッショーサンニマーケルナ、コーイコイコイコイコイコイ」と完璧な日本語で歌われますが、それ以外は変な巻舌英語で、妙に耳に残る日本向けソングとして当時大ヒットしました。

アーサー・キットはアメリカの黒人女性歌手で、ナット・キング・コールの女性版といった面持ち。53年に「ウシュク・ダラ」というやはり中近東系(トルコ)の曲をヒットさせています。日本では江利チエミが歌いヒットさせました。その前には、フランス語で「セ・シ・ボン」をヒットさせています。当時、確か来日もしています。「ショー・ジョー・ジ」はひょっとすると日本でレコーディングしたのかもしれません。子供にも馴染みのあるメロディーなので、私は「マーケルナ、マーケルナ」と歌いながらメンコをしていたのをよく憶えています。

「ウスクダラ」
「チャチャチャは素晴らしい」
「チャチャチャは素晴らしい」

「ウスクダラ」
江利チエミ
「チャチャチャは素晴らしい」
雪村いづみ
「ハートブレイク・ホテル」
小坂一也とワゴン・マスターズ

「ハートブレイク・ホテル」

 3枚とも78回転のSP盤。江利と雪村に美空ひばりを入れて初代“三人娘”。初期は三人ともカバーが多い。ただ大御所ひばりは、GS時代の「真っ赤な太陽」までは本稿では出てこないかも。江利チエミは何と言ってもデビュー曲、52年「テネシーワルツ」のカバーが有名。当時23万枚売ったという。続けて「トゥー・ヤング」「カモナ・マイ・ハウス」などポップス・ヒットを飛ばす。洋楽を歌わせたら一番だったのが雪村いづみ、54年にダイナ・ショアの「青いカナリヤ」をカバー、この曲の印象が強い。これが国産EPの第1号らしい。ちなみに本邦初の45回転シングルは56年8月発売の小坂一也とワゴン・マスターズの「シックスティーン・トンズ」という。

※印 画像提供…諸君征三朗さん


2003年9月30日更新
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第1回 昭和30年代初期の洋楽…“ロックンロール元年”の1955年


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