第3回 肝心のロックンロールが伝わらなかった日本
…1957年
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「雨に歩けば」
Just Walking in the Rain
ジョニー・レイ
これはSP盤のジャケット。B面の「ブルースを唄おう」はシングル盤では全米No.1ソングのガイ・ミッチェル版なのに、このSP盤は先に吹き込んだマーティ・ロビンス版。カントリー界では有名歌手で、「ホワイト・スポーツ・コート」(57年、2位)、「エル・パソ」(60年、1位)の大ヒット曲があるが、日本では2曲ともB面扱い。そのB面を私は偶然にもよく聴いていました。前者はサビのメロ2小節が「愛なき世界」(ピーターとゴードン)のサビと同じ。ポールはやはりいろんな曲を聴いていたのですね。 |
1957年になると、TBSラジオでも「今週のベストテン」というチャート番組が始まります。映画音楽ばかりの「ユア・ヒット・パレード」に比べるとはるかにポップス系の曲が多かったため、こちらの番組の方が楽しみになってきます。当時好きだった曲はジョニー・レイの「雨に歩けば」。クセのある切ない声と、そのメロディを追いかける口笛がヴォーカルとは対照的に飄々とした感じに聴こえて、耳によく残っています。ジョニー・レイは、52年に「クライ」という大ヒット曲を放っており、エルヴィス以前のR&B系白人シンガーとして位置づけられることもある、音楽史的に重要かもしれない人です。でもこの年、アメリカではエルヴィス・プレスリーを頂点として、リトル・リチャード、チャック・ベリー、バディ・ホリーらロックンローラーが続々と登場してきていたので、ジョニー・レイの役割はすでに終わっていたのでした。
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「ビ・バップ・ア・ルーラ」
Be-bop-a-lula
ジーン・ヴィンセント
56年のデビュー曲。写真は57年に出た再発盤のジャケット。ジョン・レノンがカバー・アルバム『ロックン・ロール』でも1曲めに取り上げたロックンロールのスタンダード・ナンバー。日本のロカビリアンたちが憧れて使ったエコーマイクは、この曲や「ハートブレイク・ホテル」のかかり具合を大いに参考にしたのではないでしょぅか。 |
ロックンローラーとしては他にも「ビー・バップ・ア・ルーラ」(56年)のジーン・ヴィンセント、「バルコニーにすわって」(57年)のエディ・コクランなどエコーたっぷりに歌うシンガーがいましたが、後続のミュージシャンへの影響力ということでは何といっても上記の3名が上。リトル・リチャードは「トゥッティ・フルッティ」「ロング・トール・サリー」(56年)、「ルシール」「ジェニ・ジェニ」(57年)など、チャック・ベリーは「ロール・オーバー・ベートーヴェン」(56年)、「スクール・デイ」「ロックンロール・ミュージック」(57年)など、バディ・ホリーは「ザットル・ビー・ザ・デイ」「ペギー・スー」「オー・ボーイ」(57年)をヒットさせ、60年代に活躍することになる英米のバンドらに大きな影響を与えていました。ここらへんの勢いが日本にそのまま伝わっていたら、その後の日本のポップスやロックも変わっていたかも知れません。しかし、このうち何枚かのレコードは日本でも発売されましたが、話題にすらなっていないはずです。当然小2の私が知る由もなく、のちにビートルズら英国のバンドのフェイバリット・アーティストとして彼らの名前が頻繁に出てくるようになってやっとその存在を知ることになります。
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『Rock,Rock,Rock』
チャック・ベリー、ザ・ムーングローズ、ザ・フラミンゴス
この3組が出演した、57年公開の映画のサントラ盤(日本は未公開)。オリジナルはCHESS原盤ですが、この盤をお持ちの諸君さんによると、これはJapan
Salesという謎(?)の会社が対米兵相手に販売していたのではないかということ。C.ベリーは「メイベリン」「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」「サーティ・デイズ」を演奏。 |
L・リチャードは、64年に本邦初のアルバム『ミリオン・セラーズ…リトル・リチャード』がようやく発売されます。我が家ではその頃すでにアルバムしか買わないようになっていて、何故かというと、シングル盤は2曲入っているとはいえB面はほとんどが“捨て曲”なので一枚単価が高くつき効率的じゃないということと、レコード針の上げ下げの面倒臭さもあってそういうことになったのです。だから気に入った曲があってもシングル盤を買わずにその曲が収録されたベスト・アルバムの発売を待つのです。兄と私はそんな相談をして“アルバム派”に転じ、気に入ったアーティストあるいは気になるアーティストのアルバムだけを買おうと決めます。そんな思いで買ったL・リチャードのベスト盤は、初めて耳にするオリジナル曲がほとんどだったと思うのですが、迫力あるヴォーカルに完璧に圧倒されました。鈴木やすしでしか聴いたことがなかった「ジェニ・ジェニ」(ジェニ・ジェニ・ジェニ イカシタ名前だぜ ジェニ・ジェニ オー ジェニ・ジェニ)は桁違いの迫力でした。どういうわけかこのアルバムには収録されていませんが「ロング・トール・サリー」を歌ったP・マッカートニーのリチャードに対する惚れ込み様がよく分かった気がしました。他にも、ブライアン・ハイランドのシングル盤で聴いていた「ベイビー・フェイス」も、全然違う曲のようでした。知るのが遅すぎた一人です。
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『ミリオン・セラーズ…リトル・リチャード』
Million Sellers… Little Richard
ヒットを量産したスペシャルティ・レコード時代の15曲収録、当時1500円のおトク盤ベスト。「ルシール(Rucille)」がまだ「ルシア」と表記されている。平尾昌章が58年にカバーしたときのタイトルが「ルシア」でした。「ルシール」と歌うメロディの終わりの「ル」がオクターブ上がってファルセットで叫んでいるので、確かに「ルシヤ」に聴こえますが。 |
一方のC・ベリーは、64年に「やさしいネイディン」「夢のドライブ・ウェイ」「ユー・ネバー・キャン・テル」がヒットし、見事にカムバックを果たします。これらの曲と往年のヒット曲を入れたやはり本邦初のベスト盤『ロックの王者!「チャック・ベリーのすべて」』が64年か65年に発売されます。いずれも様々なアーティストにカバーされた有名曲ばかりですが、私には「メンフィス」はジョニー・リバース、「ロール・オーバー・ベートーヴェン」はもちろんビートルズのジョージ・ハリソン、「スイート・リトル・シックスティーン」はビーチ・ボーイズ(「サーフィン・USA」)と、聴き馴染んでいたせいもありカバーが断然良く、折角待ち望んでいたオリジネイターのバージョンはもっとアクの強さがあるのかと思っていただけに却って淡白に聴こえるのでした。
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『ロックの王者!「チャック・ベリーのすべて」』
CHUCK BERRY'S GREATEST HITS
文中の曲以外には「メイベリーン」「ジョニー・B・グッド」「ブラウン・アイド・ハンサム・マン」なども収録。ビートルズが65年にカバーした「ロックンロール・ミュージック」は「私と踊ってくれるなら」という邦題が付いています。この曲はかろうじて歴史の順序通りに聴けました。 |
バディ・ホリーに至っては、60年代を通じて聴いたことがなかったかもしれません。まるで憶えていません。ロックンローラーとしては唯一“不良”っぽくない普通っぽいルックスの人だったので日本では受けないと見てレコード会社もプッシュしなかったのかもしれません。それほど日本では馴染みのうすい人でした。私はだいぶあとになってB・ホリーを知って、大好きだったボビー・ヴィーや「シュガー・シャック」のジミー・ギルマーがホリーの“真似っ子”と分かって結構がっかりしたものです。B・ヴィーのベスト・アルバムにB・ホリーの「エヴリデイ」という曲が入っていて、73年頃、大瀧詠一の「A面で恋をして」という曲がラーメンかなんかのCMで流れたとき、「もろ“エヴリデイ”じゃん」と思ったのですが、そのときはまだホリー・バージョンを知らないしB・ヴィー・バージョンもヒットした曲でもなかったので、随分シブイところをパクるんだなあ(「a-hei
-a-hei-hei」と歌うところまで)、と感心したのを憶えています。とまあ、アメリカ本国でのヒット曲がきちっと日本で紹介されるわけではなかったのですね、当時は。
そうした音楽史的に重要なアーティストを知らないでいる一方、歴史に残っていない「ママ・ギター」(ドン・コーネル版が日本ではヒット)はよく憶えています。この曲も小坂一也バージョンの印象が強いのかな。意図せずして3回連続登場になってしまった小坂一也ですが、彼は前年「ハートブレイク・ホテル」のカバーでウエスタン歌手からロカビリー歌手に転向したにも拘らず、この年“青春歌謡”のハシリとも言える「青春サイクリング」という古賀政男作のオリジナル曲を大ヒットさせます。ウエスタン、ロカビリー、青春歌謡という3ジャンルを器用にこなす歌手でした。そのせいか、もっと不良っぽいロカビリアン、平尾昌章、山下敬二郎、ミッキー・カーチスらに翌年頃から人気をさらわれてしまうことになります。
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『パット・ブーン・ストーリー・―ゴールデン・ヒット〜スクリーン・テーマ編―』
MOODY RIVER/PAT BOONE
「アイル・ビー・ホーム」から61年のヒット曲「涙のムーディー・リバー」までを収めたベスト。もう一枚も同じデザインで『パット・ブーン・ストーリー・―スタンダード歌曲篇―』。このアルバムで「スターダスト」「ブルー・ムーン」「ハーバー・ライト」「セプテンバー・ソング」などのスタンダード曲を知ることができました。 |
本家の洋楽では、平尾らの見本である“不良”っぽいエルヴィス・プレスリーより“優等生”タイプのパット・ブーンの方がファン層が厚く日本人には人気がありました。ビング・クロスビー、ペリー・コモらR&R以前のポピュラー音楽の伝統を継承する若者代表のような立場でしょうか。この年「アイル・ビー・ホーム」「砂に書いたラブレター」「四月の恋」の大ヒットを飛ばして、我が家も一家を挙げて(父親は除く)ファンになります。後に初めて買うことになるLPは、25cmのパット・ブーン版クリスマス・アルバムでした。60年の暮れかな。だから「ホワイト・クリスマス」はビング・クロスビー版よりパット・ブーンの方が馴染んでいる。その後、2枚のベスト・アルバムを買い揃え熱心に聴くことになります。アメリカでは62年の「スピーディー・ゴンザレス」が最後のヒット曲となり、チャートから姿を消しますが、日本ではその後も「悲しきカンガルー」(オリジナルはオーストラリアのロルフ・ハリス)などがヒットししばらく人気が続きます。その頃、『パット・ブーン、プレスリーを歌う』という企画アルバムが発売され、「待ってました」とばかりに買いました。でも聴いていくうちに、オリジナル・エルヴィスに勝れるところがひとつもないことに気がつきます。一時期はプレスリーとライバル視されたこともあったパット・ブーンですが、言ってみればこのアルバムは、エルヴィスに寄り掛かって商売するパットの完全な敗北宣言だったのですね。その後、64年から3年連続で来日して、相変わらず日本では人気者でいましたが、私はその頃にはすっかり興味が失せていました。
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『パット・ブーン、プレスリーを歌う』
PAT BOONE SINGS GUESS WHO?
このアルバムは、63年暮れ頃です。両者とも好きだったので面白がって買ったのですが、パロディともマジとも思えず、エルヴィスの名曲が随分うすめられちゃったなという感じばかりが残り、これを境にパット・ブーンは聴かなくなります。 |
※印 画像提供…諸君征三朗さん
2003年10月28日更新
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