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第5回 日本橋から築地まで
〜下町商業地域並びに
臨海地域を訪ねて〜


−2日目の朝、バスは日本橋へと向かっています。
昨夜は枕投げで大騒ぎしたようで、みんな少々ネボケ気味です−

・室町三丁目
 ただ今バスが走っているのは、昔の奥州街道現在の国道4号線です。江戸時代、浅草橋付近に「浅草橋見附門」があり、奥州方面からの出入りを監視していました。その門の内側に当たる街道沿いに問屋街ができました。浅草橋から横山町、馬喰町にかけては繊維、文具、小間物、雑貨の問屋が続いております。室町三丁目の交差点が近づきました。ここは昔「日本橋追分」と言われ、南は東海道、北は中仙道、東は奥州街道、西は甲州街道への分岐点でした。この交通の要衝を中心として経済の中心街が形作られていったのです。

日本橋・日本橋
 室町三丁目の交差点を左折すると右手に三越本店が見えてまいります。日本橋には他に高島屋、白木屋[後の東急日本橋店。平成11年1月閉店]といったデパートがあり、ショッピングの中心地となっています。更に先に行くと「日本橋」がございます。小学校の社会科で習ったと思いますが、江戸時代にここが五街道の起点となりました。今では橋のたもとに「東京市道路元標」と書かれた鉄柱が建っております。現在は川の両岸に倉庫会社や問屋のビルが立ち並んでいますが、昔はこの辺に魚河岸がございまして佃島の漁師が毎朝新鮮な魚を運んできて魚市場がたったそうです。

白木屋
白木屋

・茅場町
 日本橋を渡り、白木屋のある交差点を左折して永代通りに入ります。この先茅場町には東京証券取引所があり、ここを中心にして証券街が形成されています。東京証券取引市場のことを「兜町」ということがありますが、取引所の側にある「兜神社」が地名の由来となっています。

昭和時代の永代橋
昭和時代の永代橋
富岡八幡
富岡八幡

・深川
 隅田川に架かる永代橋を渡って深川へと入ります。ここには富岡八幡宮があって、町は八幡宮を中心に門前町として発展していきました。そのため今も「門前仲町」という町名があります。また明治11年に成田山新勝寺の別院「深川不動」が建てられて、更ににぎやかになりました。近くには材木の貯木場である「木場」があり、江戸時代から多くの材木業者が住んでいます。また海抜が低く、地盤沈下に悩まされている地域でもあります。

・越中島、豊洲
 門前仲町の交差を右折、清澄通りに入ります。この先が越中島です。元禄時代に埋め立てられ榊原越中守の屋敷があったことから、「越中島」という地名になりました。明治になってここに高等商船学校や水産講習所が設けられ、現在は商船大学が置かれています。大学の角を左折して越中島通りを経て豊洲橋を渡ります。
豊洲・東京電力(昭和32年)ここ豊洲には東京電力の新東京火力発電所[昭和31年2月操業開始。現在は豊洲ガスタービン発電所]と東京ガスの豊洲工場[昭和31年10月設置。平成6年6月閉鎖]があります。新東京火力発電所は都内の電力の1/3をまかなえる規模で、ガス工場と合わせて豊洲は東京のエネルギーの心臓部といえるでしょう。ここにはこれらの原料となる石炭専用の「石炭埠頭」があって、1万トン級の大型船2隻を同時に横付けできるようになっています。車中からも荷揚げをする巨大なクレーンが見えます。

晴海埠頭の海王丸
晴海埠頭の海王丸

・晴海埠頭
 豊洲をぐるりとまわって、晴海へとやってまいりました。ここ晴海には晴海埠頭[昭和30年に一部完成]があります。こちらの埠頭は貨物が主体の埠頭で、面積は280万坪、ブイ22個、桟橋岸壁の長さは3419mあります。扱う貨物の量は約1460万トン(昭和32年)で全国6位ですが、やがて全埠頭が完成しますと1万トン級の船を15隻横付けできるようになります。この埠頭を中心に国際見本市会場[平成8年4月東京ビッグサイト(有明)に移転]や高層の団地[公団晴海高層アパート 昭和33年建設。平成9年取り壊し。平成13年4月晴海トリトンスクエアとなる]が広がっています。

・勝鬨橋
 黎明橋を渡って晴海通りを進んでいくと隅田川に出合います。ここにかかる橋が勝鬨橋です。この橋は隅田川に掛かる最も下流の橋で、日露戦争の際に築地〜月島間の渡しに「かちどき渡し」の名がつけられたのが、橋の名前の元になりました。
現在の橋は昭和15年に架けられたもので、河口から隅田川を上る大きな船が橋につかえないように、中央から2つに分かれて八の字に開くようになっています。125馬力のモーターを4台使い、1日3回、9時、12時、15時に20〜30分開きます。[開閉は、昭和45年に終了]こういう構造の橋を「複葉式跳開橋」というそうです。

勝鬨橋
昭和時代の勝鬨橋
勝鬨橋

・築地
 勝鬨橋を渡ると築地です。ここには築地本願寺があります。浅草本願寺が京都東本願寺の別院であるのに対し、こちらは西本願寺の別院となっております。「築地」という地名になったのは、信徒であった佃島の漁師達が寺を建てる際に埋め立てを行って「地を築いた」ことに由来するといわれています。現在の建物は昭和9年にできたもので、古代インドの寺院様式を取り入れています。
中央卸売市場(昭和35年)て、築地は本願寺の門前町であると共に、「都民の台所」築地中央卸売市場があることで知られています。もともと昭和8年に日本橋にあった魚河岸が移転してきたものですが、東京湾に面した桟橋や汐留駅からの引込線を通じて毎日大量の入荷があります。残念ながら今はせり中で見学できませんが、また東京に来る機会があったら是非御覧下さい。

(第5回 終)
調査協力:財団法人 日本修学旅行協会


 この番組は、昭和30年代から40年代にかけての東京を修学旅行形式で皆さんと振り返 る視聴者参加番組です。当時実際に東京見学に行かれた方も多いと思います。その時の旅 のしおりや写真、学校で書かされた感想文などがお手元にありましたらご投稿下さい。


2002年10月17日更新
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第4回 上野駅から両国橋まで 〜下町商業地域を訪ねて〜
第3回 神保町から上野公園まで 〜文教地域を訪ねて〜
第2回 新宿駅から九段まで 〜山手の住宅地域と商業地域を訪ねて〜
第1回 データで見る昭和35年


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