アカデミア青木
第4回 進化するパチンコ、何処へ行くパチンカー
昭和47年頃のこと、『週間少年ジャンプ』で牛次郎原作・ビッグ錠画のパチンコ漫画『釘師サブやん』が連載されていた。(写真は竹書房文庫版の『釘師サブやん』1〜5)ハンマー1本でパチンコ台の出玉を操る「釘師」サブやんと利き腕1つで生計を立てる「パチプロ」達との熱き戦い。小学生だった小生は、毎週ワクワクしながら立ち読みしていた。で、こづかいは近所の文具店兼駄菓子屋の前にあるパチンコ型ガム販売機に貢いでいた。友人と漫画の中に出てくる「秘打・正村昇り龍」のマネをしながら、いつの日か本物のパチンコで遊んでやろうと野望を膨らませていた。今回の昭和のライフは、その「パチンコ」を取り上げる。
パチンコのルーツについては米国の「コリントゲーム」や欧州の「ウォールマシーン」など諸説あるが、その原型は大正後期に登場し、露店の形態をとって全国に広まった。当時は、鋼球ではなく1銭銅貨を穴に入れると飴玉や駄菓子がもらえるという子供の遊びであった。これが大人の遊びとなったは昭和5年のことで、この年名古屋の平野はまが愛知県警から遊技場としてパチンコを営業することを許可されたのがパチンコ店の第1号である。やがて1銭銅貨に代わり鋼球を使う機が出現するが、第二次大戦のため途絶した。
「昭和30年代後半の
パチンコ実用新案資料(一部分)」 |
戦後、パチンコは大きく飛躍する。21年に名古屋でパチンコ機の製造が再開されると、様々な機種が発明された。どの穴に入っても10個あるいは15個の玉が出てくる「オール10」、「オール15」などの「オールもの」(それまでは入る穴によって、7個、5個、3個の玉が出る「七・五・三式」が主流)や正村竹一による「正村ゲージ」機、1分間に140〜160発打てる「連発式」などである。28年にはパチンコ店は全国で4万3千軒、設置台数は150万台となったが好事魔多し、やくざがパチンコに進出したりギャンブル性が高くなったことから、警視庁は29年11月に1年間の猶予期間を設けて「連発式」を禁止した。また、景品の現金交換も禁止したことから、27年に5700軒あった東京のパチンコ店は30年に2千軒に減り、全国の店数も9千軒になってしまった。
パチンコが低迷から抜け出すのは、昭和35年の「チューリップ」機登場を待たねばならなかった。穴に玉が入るとパッと開くチューリップ。初期のものは盤面の下の方に1つしかなかったが、次第に数を増して4〜5、最も多いもので10個備えたものもあったという。また、1つのチューリップに玉が入ると残り全部のチューリップが開くタイプも現れた。
さて、昭和40年代の独身勤労者はどのようにパチンコを楽しんだのか。
表1の10代20代男女の実施率を見ると、40年代前半はおおむね33%と安定していた。ところが、44年になると状況は一転した。パチンコ業界が貸玉料金の値上げの代わりに「連発式」復活を当局に要望し、認められたのだ。連発式の復活でパチンコ人気は高まり、実施率も51年には40%を突破した。46年、49年、52年の景気後退の年にも実施率は増え続けており、麻雀と並んで「不況に強い娯楽」であったことがわかる。各年の10代男性と20代男性の実施率を比べると常に10代の値が20代の値を上回っており、パチンコが「若い男性の娯楽」であったことがわかる。一方女性の実施率も41年8.2%、43年10.8%、46年16.4%、49年18.6%、51年21.4%と着実に増えていて、この間の女性の麻雀率が2〜3%であったのと好対照をなしている。パチンコが1人でできる娯楽であったのにせよ、これほどまでに女性に受け入れられるようになったのは、店側のたゆまぬ営業努力の賜物であろう。『釘師サブやん』の店内風景を見ると当時はイスはなく、客は立ってパチンコを打っていた。パチンコ店にイスが入ることにより、体力のない女性や老人も長時間パチンコを楽しむことができるようになった。また、昭和43年には駐車場付きのパチンコ店が出現しているが、これは現在見られる郊外店の先駆けといえるのではないか。
これほど人気のあったパチンコだったが、昭和40年代〜50年代半ばの店舗数を見ると非常に安定していた。同時期人気のあった麻雀店が順調にその数を伸ばしていったのと対照的である。これは、1.新規参入に多額の資金が必要だったこと、2.盛り場のような客の見込める場所が既存店に押さえられていたこと、3.20年代末の大転業時代(7割の店が転業)の教訓から参入への躊躇があったことなどが理由として考えられる。むしろ店舗が増え出すのは57年になってからで、その背景には55年の「ドラム式フィーバー機」の出現から始まった「第3期パチンコブーム」がある。ブームに乗って店舗の近代化・大型化・デラックス化が図られ、地方にも続々と郊外店ができた。
59年以降の男性の年間参加率に注目すると、20代の値が10代の値が常に上回っており、40年代と逆転していることがわかる。
表2を見ると「フィーバー機」前の54年の年間平均費用が2万円であるのに対して、57年以降年々増加して平成7年には9万円に達している。経済力が20代より劣る10代のパチンカーにとってこれは苦しい。それが10代の年間参加率の低下となって現れている。若年層のパチンコ離れは業界の将来に暗い影を投げかけることになるが、今後この難題をどう解決していくのだろうか。
いっそ原点に返って、手打ちのパチンコを復活させてはどうだろうか。テレビで釘師とパチンカーの対決を流せば、なお一層盛り上がると思うのだが。
参考文献
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『釘師サブやん』竹書房文庫 平成8年 |
『趣味の世界9パチンコ』日本放送出版協会 昭和51年
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『警察白書』昭和43年〜平成12年 |
『警視庁の統計』昭和42年〜平成12年 |
週刊朝日編『値段史年表』朝日新聞社 昭和63年 |
『独身勤労者の消費生活』経済企画庁 昭和40年〜51年
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『レジャー白書』昭和59年〜2001年(財)自由時間デザイン協会]
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社団法人 日本遊技関連事業協会(日遊協)ホームページ
http://www.nichiyukyo.or.jp
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2002年8月9日更新
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