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串間努 第5回「ハーモニカ」の巻

◆玩具のハーモニカ

 ハーモニカの音色はいいものだ。音色を聞くと哀愁があるのは、街頭で白衣を着た傷痍軍人がハモニカを咥えて懐メロを奏でていたイメージがあるせいだろうか。

「ゼハーハーモニカ」雑誌広告
「少年」昭和23年3月号

 ハーモニカがドイツで発明されたのは1827年のことである。これが日本に入ってきたのが明治24,5年。単音の国産ハーモニカは明治40年に開発されたが、当初は子ども向けの玩具のようなものだった。

 玩具業界の古老の話をまとめると、日本のハーモニカ楽器玩具の元祖は、東京の大森製で、七りき、三りきというのものであったらしい。三十個か五十個ずつ、紙に包んであり、二寸か一寸くらいの大きさだった。九州の久留米には真鍮とトタン製の四つ穴、六つ穴、十穴の「吹風琴」というのがあり、中国にも輸出されていた。「角風琴」というのもあり、これは笛がダブルで、上等だった。これらトタン製や真鍮製のものは、吹いていると、口がすっぱくなったという。

「トンボハーモニカ」雑誌広告
「少年」昭和22年5月号

 明治時代はドイツのホーナー社製のものを輸入していた。ドイツから輸入された時に、一番よく売れたのは、「かちどき笛」という名で、日本の兵隊がロシヤ兵を、剣付鉄砲で刺している絵の入ったものだったという。

 その後、第一次世界大戦でドイツからハーモニカが入ってこなくなり、ラッパを作った千束町の吉永という人が作りはじめたのが、日本のハーモニカの元祖である。その後、一、二年して、ハート型の子供の手風琴を作っていた根岸の小林鶯声社というのが作りはじめ、さらに、竹町の子供用手風琴屋の間野清次郎氏が作り始めた。これは今のトンボ印である。その後、浜松に日本楽器などハーモニカ産業が勃興する。

「ソプラノシングル」雑誌広告
「少年画報」昭和32年12月号

◆宮田東峰のミヤタバンド

 雑誌の広告には「ミヤタバンド」という名前がしばしば登場する。

「ミヤタバンドハーモニカ」雑誌広告
「少年クラブ」昭和39年11月号

 大正から昭和の初期にかけてはハーモニカの黄金時代といわれ、後に「川口バンド」ブランドを出す川口章吾などが活躍していた。そこに「ミヤタバンド」で有名になる宮田東峰(東峰は祖父の俳号)が日本コロムビアの前身会社からレコードデビュー、大正7年に宮田が独奏だけでは飽き足らなくて日本で初めて結成したハーモニカバンド「東京ハーモニカ・ソサィアティ」(後に「ミヤタ・ハーモニカ・バンド」と改称)を率いて、レコードの売り上げを浪曲とともにかなり伸ばしたという。大正14年には「川口章吾ハーモニカ合奏団」など全国に300を超えるハーモニカバンドが誕生したというから、ハーモニカは手軽な学生の楽器で、いまでいうギターのような存在だったのである。

「ミヤタハーモニカ」雑誌広告
「おもしろブック」昭和28年3月号

 ハーモニカの楽譜と云うのは、ドレミファソラシドを数字に当てはめた、数字譜というものだが、これを考案したのも宮田東峰である。大正13年春にはトンボハーモニカ製作所と提携して、「ミヤタ・バンド」と銘打ったハーモニカを発売、これが戦前・戦後のハーモニカの代名詞となっていく。トンボ以外の会社も「宮田先生監修」として「ミヤタ・バンド」という商品を発売しているが、権利関係がどう錯綜していたのかはわからない。

◆少年とハーモニカ

 戦後も子どもの間でハーモニカが人気だった。宮田東峰の人柄がわかるエピソードがあるのでそれを紹介して筆を閣きたいと思う。

 宮田が昭和25年に名古屋公演したときの話である。靴磨きの少年に靴を磨いて貰ったところ、少年の脇にハーモニカが置いてある。「君はハーモニカが好きなのかい」「好きだけどまだよく吹けないんだ。おじさんは吹ける?」「いや、おじさんは吹けないよ。どうだ、いま東京からミヤタバンドが来ているから聞きにいったら」

 少年が「行きたいけど、高くて僕なんか入れないや」と肩を落とすのをみて、宮田は「これをあげるから、今夜聞いておいでよ」と胸ポケットからチケットを出した。戦災に会い、東京で両親を失った孤児の身の上を聞いて同情したのだ。「おじさん、本当にくれるの」「ああ、あげるよ」「ありがとう」そんな会話があって、その晩、公演が終わって楽屋に戻ると少年がもじもじと立っていた。「おじさんが宮田東峰なの?びっくりしたよ。ハーモニカ吹けないなんて」宮田と少年は親子のように笑いあって別れた。ところが少年が売店からキャラメルを2個買って戻ってきた。ファンが楽屋にたくさんの贈り物をしているのをみて、少年は自分で出来る範囲のことをしたのだった。宮田はどんな豪華な贈り物より貴いと思い、楽団員にキャラメルを一粒づつ配った。キャラメルの甘味が少年の純粋な心のように拡がって、楽団員一行は声もなかったという。

●書き下ろし


2003年1月24日更新


第4回「エヂソンバンド」の巻
第3回「スパイカメラ」の巻
第2回「コンプレックス科 体重・体格類」の巻
第1回「コンプレックス類 身長科」の巻


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