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第4回 1957年の異色ヒット・ソング
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ロックンロールが正確に伝わらなかった57年の日本では、映画音楽の主題歌がやはり強く、相変わらず「エデンの東」はラジオ・チャートに居座っていて、さらにジェームス・ディーンの三作目『ジャイアンツ』のテーマもヒットし、他にもスリー・サンズの演奏「ジェルソミーナ」(『道』)や「誇り高き男」、フランキー・レインの「OK牧場の決闘」、アントン・カラスのチターの調べ「第三の男」などがラジオでよくかかり、60年代の前半まで映画音楽の全盛期が続きます。個人的にこの年忘れられない想い出として記憶にあるのが、『禁じられた遊び』と『汚れなき悪戯』の二本立て映画を見たこと。社会教育という意味があったのか学校の行事として二子玉川園の隣にある映画館で見ました。当然文部省推薦だったはずで、日本の至る所で観賞会があったかどうかは分かりませんが、同年代の方は経験されてるかも知れません。私にとっておそらく洋画を見たのは初めてだったはずで、2作とも内容がよく理解できずに、特に『汚れなき悪戯』のなかで、屋根裏だかに放置されたキリスト像が動いて主人公の少年と会話するシーンがあったのですが、不思議で仕方なかったことだけを覚えています。でもそれだけに非常に印象に残っていて、「マルセーリーノ、マルセーリーノ」と歌われる主題歌「マルセリーノの歌」の美しくも物悲しいメロディーが脳裏にベタっと焼き付きました。音楽的にはナルシソ・イエペスの「禁じられた遊び」ももちろん脳裏に焼き付いて、のちに多くのギター初心者と同じようにギターを弾くきっかけになります。
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「禁じられた遊び」
Jeux Interdits
ナルシソ・イエペス
洋楽しかレコードを買ったことがなかったのに、このカップリング「雪の降る町を」はないよね、キングレコード。我が家での最初で最後の邦楽曲。でも何回か聴いていくうちに雪が心に染み込んで好きになっていくのでした。 |
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「第三の男」
Third man theme
ジョージ島袋
アントン・カラスのチター演奏だからこその名曲でもあるインスト曲を謎の男が日本語でカバー。SP盤。「♪あのメロディーは 昨日の夢よ 思い出す あの悩し ささやきよ♪」という歌詞が付いている(ジャケット提供の諸君さんからの情報)。A面美空ひばりの「アゲイン」はドリス・デイ版の日本語カバーか。 |
この映画の2作品とも子供が主人公でしたが、テレビでも子役が大活躍していました。「サーカス・ボーイ」は主人公の少年が象に乗って登場するオープニング。この少年ミッキー・ブラドック(のちのドレンツ)が、後年青年になって「モンキーズ」の一員として登場したときは驚いた。思わず兄と顔を見合わせて「サーカス・ボーイだ!」と同時に叫びました。しゃくれた顔が全然変わっていなかったんですね。57年には、ジェフ少年とコリー犬が主人公の「名犬ラッシー」が始まります。アメリカの田舎の家庭が舞台なのですが、それでもキッチンには大きな冷蔵庫がありその出入口は網戸とドアで二重になっていたりして、日本の家庭とは全然違う印象がありました。我が家にはその頃、ポチという何の変哲もない雑種犬がいて、それはそれで可愛いのですが、テレビのなかの頭の良いコリー犬がずいぶんとまぶしくて羨ましくて仕方ありませんでした。当時“犬もの”では、やはりラスティという騎兵隊少年とシェパード犬が主人公の「名犬リンチンチン」という番組と人気を二分していましたが、我が家は断然ラッシー派でした。当時日本で流行っていたペット犬はスピッツで、うちの隣でも飼っていて、キャッチボールして隣家に入ったボールを取りに行く度にこれでもかとばかりキャンキャンしつこく吠えるのでした。コリーはまだ少なかったのですが、街で見かけると誰もが「ラッシーだ」と笑顔で呼び掛けるのでした。ポチの晩年、念願のコリーを飼うことになるのですが、飼育・調教らしいことを全くしなかったのでラッシーのようには全然賢くはならないままフィラリアに罹って早くに死んでしまいます。
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これは60年初頭の頃。二人でできる遊びはたくさんあったけど、道具が何も要らない相撲は温ったまるので冬には欠かせない遊びでした。それを初代犬ポチが「何やってんだか」という顔で見守っています。 |
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この頃の写真は35ミリフィルムを2倍に使えるオリンパス・ペンで撮影したもの。妹と近所の友達と、オスだけど6月生まれなのでジューン。ラッシーは茶色だったけどこの犬は黒で、まだ少数派だった。 |
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ついでに現在溺愛中のラン4歳オス。プードルとポメラニアンのあいのこ。 |
この年、若者向けの歌としては「ヤング・ラブ」という曲が、本国では俳優のタブ・ハンター版が1位になり、日本ではソニー・ジェイムス版でヒットします。うた頭の2小節が「アナザー・デイ」(P・マッカートニー)を間延びさせたようなメロディーなのですが、ギターのアルペジオが気持ちよいバラードでした。他には、当時夫婦だったエディ・フィッシャーとデビー・レイノルズがこの年それぞれ名前の付いたタイトル曲で大ヒットを飛ばします。「オー・マイ・パパ」などのヒットがある夫エディは「いとしのシンディ」をクルーナー歌唱で歌い、妻デビーは映画の主題歌「タミー」を全米1位にします。先の映画音楽といい、これらの曲もすべて好きになりますが、少年が胸躍らせるにはちょっと古いタイプなのですね。
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「ヤング・ラブ」
Young Love
ソニー・ジェイムス
SP盤。カントリー・シンガーのソニー・ジェイムス版も全米2位の大ヒット。一方のタブ・ハンターは60年に「恋の手ほどき教えましょう」というTV番組が日本でもオンエアされます。 |
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「タミー」
Tammy
デビー・レイノルズ
「Tammy」が「タミー」とは聞こえず、なんで「チャーミー」なのかと、英語の不思議さを体感しました。デビーはエディ・フィッシャーと59年に別れ、エディは女優エリザベス・テーラーと再婚します。 |
アメリカの音楽は変わっている、と感じた最初の曲はダイアモンズの「リトル・ダーリン」だったかもしれません。今まで言うとホワイト・ドゥワップのジャンルなのでしょうが、変なバックコーラスに加えてメロディーは「HA行」を強調して「ハンバハンバ」と歌う、こんな感じの曲は日本にはあり得ず、でもノリが良くて気持ちよくて好きになっちゃうんですね。途中で「My
darling, I need you...」と冗談ぽい語りが入るのも変わっていると思った要因。日本では平尾昌章がカバー盤を出しているようですが、この曲は、つい最近亡くなった伊藤素道さん率いるリリオ・リズム・エアーズが英語でやはり「ハンバハンバ」と歌っていたのが強く印象に残っています。
語りといえば、パット・ブーンの「アイル・ビー・ホーム」にもありましたが、他にも、語り入りの曲がぞくぞく出てきます。ニール・セダカの「おヽキャロル」(60年)なんか語りも含めて曲全体が「リトル・ダーリン」に似ています。エルヴィスの「今夜はひとりかい?」(61年)は二番全部が語りなのですごく長い。それを忘れてカラオケで歌いはじめ、途中で語りの部分になって「あっ」と思い出したときはすでに遅く、すごく白けるのですね、歌う方も聴く方も。エルヴィスでなけゃ持たない語りです。でも本国ではこれが受けて、「Are
You lonesome tonight?」という問いに対するたくさんのアンサー・ソング「Yes, I'm lonesome
tonight」(ドディ・スティーブンスなど)が生まれるほど大ヒットしました。あれだけヒットしたのにこの曲の日本語のカバー・バージョンの記憶がないのはやはり語りのところがもたなかったからでしょう。と思っていたら、またも平尾昌章が61年に「ギラギラロック」という曲のB面に入れていました。「星は何でも知っている」の語りじゃないんだから、モタナイと思うんですが、聴いてみたい気もちょっとだけします。
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「リトル・ダーリン」
Little Darling
ダイアモンズ
この曲は黒人ドゥワップ・グループのクラジオラスをカバーしての大ヒット。当時のアメリカには、たくさんのドゥワップ・グループがいましたが、日本では全く紹介されず、黒人グループとしてはこの年「オンリー・ユー」をヒットさせたプラターズくらいしか知られていませんでした。パット・ブーンの「アイル・ビー・ホーム」もオリジナルはドゥワップ・グループのフラミンゴスで、なぜか「オンリー・ユー」に似ている。 |
57年は他にも異色ソングとして、キューバの労働歌をハリー・ベラフォンテが歌って大ヒットさせた「バナナ・ボート」という曲があります。「デーオ、イデデーオ」と歌われるのですが、我々子供たちはもちろん「イテーヨ、イテテーーーヨ」「あんみつ食べたいカネがなーい」と歌ったのは申すまでもありません(原曲を知らない人は何言ってるのか不明でしょうが)。日本では18歳の浜村美智子が妖しい出立ちでこの曲をカバーし、“カリプソ娘”と呼ばれ、本家のベラフォンテ・バージョンより売れます。ベラフォンテはその後、60年7月に来日し、歌のうまさで好評を博します。コンサートの模様がテレビでも放映され、私も見ました。当時としては比較的長いナンバー「マチルダ」を歌うシーンが印象的でした。「マッチルダ」と歌うところをお客に唱和させるのですが、日本人は気後れしながらも徐々に声が出るようになり最後には大きな声と笑い声に変わるというノリをベラフォンテは上手に引き出していました。この頃は我が家にもプレイヤーがあったのですぐにシングル盤を買いました。
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「バナナ・ボート」
Banana Boat
浜村美智子
この頃はまだSPとシングル盤が共存していて、2種類発売されていました。これはSP盤のジャケットで、シングル盤の方は艶かしいセミヌードのジャケット。浜村美智子は絵と写真のモデルをやっていたところをスカウトされ歌手になったという。 |
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同レーベル |
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「ダニー・ボーイ/マチルダ」
Danny Boy/Matilda
ハリー・ベラフォンテ
A、B面とも60年4月19、20日、カーネギー・ホールでの実況録音盤。「マチルダ」はコンサートのラスト・ナンバーで、当たり前ですが、観客のノリは最初から良い。 |
57年の来日アーティストとして記憶にあるのがイベット・ジローというシャンソン歌手。ジローさんといっても中年の女性歌手で、テレビで日本語でも歌っていたのが印象に残っています。彼女の来日を期にシャンソン熱が高まり、丸山明宏(現美輪明宏)が「メケ・メケ」(ジルベール・ベコー作)を歌って話題になります。歌よりも“シスターボーイ”と呼ばれた、白粉を塗りたくったようなメイクばっちりの容姿が話題になったのですが、学校でも、なよっとした少年は「シスターボーイ!」とか「おんなおとこ!」とか囃されたりしていました。
※印 画像提供…諸君征三朗さん
2003年11月21日更新
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