「まぼろしチャンネル」の扉へ
「番組表」へ 「復刻ch」へ 「教育的ch」へ 「東京カリスマch」へ 「日曜研究家ch」へ 「あった、あったch」へ 「再放送」へ 「ネット局」へ
「課外授業」
「国語」
「算数」
「理科」
「社会」
「情操教育」
秘宝館
掲示板
マガジン登録
メール
まぼろし商店街
まぼろし洋品店

東京の観光

ああわが心の
東京修学旅行

「課外授業」タイトル

第6回 銀座から品川まで
〜都心地域と都市交通を訪ねて〜


−バスは晴海通りを築地から銀座へと進みます−

・銀座
銀座四丁目交差点

銀座四丁目交差点 S34

 歌舞伎座の前を通り過ぎ、バスはいよいよ銀座へとやってまいりました。「銀座」というと「華やかな娯楽街」という感じがいたしますが、実は「マスコミの中心地」でもあるのです。明治時代に多くの新聞社が銀座通りに社屋を構え、現在では有楽町から日比谷にかけて、新聞社や民間放送のスタジオが多く集まっています。日比谷公園の先にはNHKもあり、「日本の神経の中枢」ということができるでしょう。

 
新数寄屋橋付近

新数寄屋橋付近 S36


・数寄屋橋

 数寄屋橋は、江戸城の外堀に掛けられていた橋でしたが、現在は橋の下の外堀がすっかり埋め立てられて、高速道路が造られております。川の上で番地がないので「有楽町0番地」などといわれています。最近は、池袋からの地下鉄がここまで延び、地下鉄西銀座駅ができ、ますます賑わいを増してまいりました。このあたりの移り変わりは激しく、昔の面影は全くなくなってしまいました。右手前方に日本劇場、朝日新聞が見えますが、バスは数寄屋橋交差点を左折して新橋方向へと向かいます。

・新橋
鉄道唱歌の碑

鉄道唱歌の碑

汐留再開発

汐留再開発

 前方に新橋駅が見えてまいりました。「汽笛一声新橋を…」の鉄道唱歌で皆さんご存知の駅です。明治5年に新橋−横浜間にわが国初の蒸気機関車が走るようになりましてから、大正3年に東京駅ができるまでの42年間、新橋駅は日本の交通の中心でございました。昔の新橋駅は現在「汐留駅」と呼ばれ、貨物駅となっております。今の新橋駅は、昔「烏森駅」と呼ばれていたものです。[現在汐留駅一帯は再開発工事中、平成15年春に高層ビルが続々オープンする]

・浜離宮庭園
浜離宮公園

浜離宮公園

 汐留駅の反対側にある緑は「浜離宮庭園」です。浜離宮庭園は江戸時代に造られた代表的な大名庭園で、東京湾に臨み、池に海水を引き入れ、汐の干満によりその水位を変える「汐入りの池」は文化財として貴重なものです。もともと承応3年(1654)に松平綱重が幕府から土地をもらって造りましたが、後に幕府のものとなり、明治維新後は皇室が使用しました。一般に開放されるようになったのは、戦後になってからです。

増上寺大門

増上寺大門

 浜離宮離宮の脇の道を進むと、芝離宮に出ます。ここを左折して海側へ進むと「竹芝桟橋」があり、伊豆諸島向けの定期船などが停泊しております。しかし、バスはここを右折します。浜松町のガードをくぐると前方に門が見えます。あちらは増上寺の「大門」です。この大門の1つ手前の交差点を左折して第一京浜へと入ります。


・泉岳寺
泉岳寺

泉岳寺

 左前方に「高輪大木戸」跡が見えてまいりました。昔、ここには大木戸があって東海道を旅する人の送迎がここで行われました。ここまでくれば本日の最初の見学地「泉岳寺」はもうそこです。赤穂義士四十七士のお墓のある泉岳寺は、徳川家康によって慶長17年(1612)桜田門外に建てられました。その後現在の場所に移されたのです。このお寺は赤穂城主浅野家の菩提寺でございました。お寺の中には、四十七士の連判状を手にした大石良雄の銅像、義士が討ち入りの時に使った道具や着物が展示されています。吉良上野介を討ち取った義士達は、本所松坂町の吉良邸からまっすぐ泉岳寺にやってきて、亡き主君浅野内匠頭長矩の墓前に上野介の首を供え、見事かたきを討ったことを報告したのでございます。では、バスが到着したようです。足下にお気を付けて、順序よくお降り下さい。

・品川
品川駅付近 S33

品川駅付近 S33

 第一京浜を更に南下、バスは品川へと向かいます。このあたりは、江戸時代には大名の、明治から戦前にかけては宮家や華族のお屋敷が点在しておりました。右手にあります「高輪プリンスホテル」も北白川宮邸の跡に建てられています。品川駅は明治5年に新橋−横浜間に鉄道が開通した際に設けられ、現在「東京の南玄関」といったところですが、京浜急行の品川駅というのもあって、こちらは明治33年の開業で私鉄では一番古い歴史を誇っています。バスの左側は埋立地ですぐ海へと続いておりますが、埋立地がなかった頃は右手の高台の裾まで海が迫っていて、鉄道を敷く際には海の中に土手を築いたそうです。

・品川宿
現在の品川宿

現在の品川宿

 八ツ山橋の跨線橋を渡ると、左に分かれる細い道がございます。これが東海道の旧道で、このあたりに東海道五十三次最大の宿場町といわれた「品川宿」がありました。一方、第一京浜国道は大正年間、後藤新平という方の計画で作られました。当時、こんな広い道路は必要ないといわれましたが、今日になってみますと、この計画はまことに適切なものであったといえます。しかも、これでは足りないので、現在「第二京浜国道」が作られております。

・東海寺
東海寺

東海寺

 まもなく東海寺というお寺の近くを通ります。今から三百年ほど前に沢庵禅師が開いたお寺でございます。沢庵和尚は皆様の好きな沢庵漬を発明した方といわれておりますが、東海寺の墓地には、この沢庵和尚の他に、江戸時代の国学者賀茂真淵や、板垣退助のお墓があります。百円札でお馴染みの板垣退助は、明治の初め頃、民主主義を唱えた人としてあまりにも有名でございます。

(第6回 終)
調査協力:財団法人 日本修学旅行協会

東海寺墓地の沢庵和尚の墓

東海寺墓地の沢庵和尚の墓


 この番組は、昭和30年代から40年代にかけての東京を修学旅行形式で皆さんと振り返る視聴者参加番組です。当時実際に東京見学に行かれた方も多いと思います。その時の旅 のしおりや写真、学校で書かされた感想文などがお手元にありましたらご投稿下さい。


2002年12月10日更新
ご意見・ご感想は webmaster@maboroshi-ch.com まで


第5回 日本橋から築地まで 〜下町商業地域並びに臨海地域を訪ねて
第4回 上野駅から両国橋まで 〜下町商業地域を訪ねて〜
第3回 神保町から上野公園まで 〜文教地域を訪ねて〜
第2回 新宿駅から九段まで 〜山手の住宅地域と商業地域を訪ねて〜
第1回 データで見る昭和35年


「教育的チャンネル」の扉へ