串間努
第1回「レトロスタイルを気取るなら『スモカ』で行こう!」の巻
一〇数年前のこと。二〇歳台なかばでもなお、青年客気が激しかった私の生活上の美学は「レトロな生活」であった。当時付き合っていた彼女も、旧家のたたずまいに憧れ、ロングセラー商品を愛用するなど「古き懐かしきもの」を大切にする少女であった。彼女に気に入られたい一心で私は、東急ハンズでアルミのドカベン弁当箱を購入したり、頭にはアイパーをあてて柳屋ポマードや丹頂チックで整髪するなど、レトロチックな生活スタイルを追い求めていた。いまから考えると笑い話だけれども。なにしろ大学生だったころ(一年間だけですが)の私は、学生帽をフライパンで炒め、靴墨を塗ってテカテカの破帽にして被った。風呂敷包みを抱えて昔の大学生を気取り、「どうだ!」と世間を闊歩してくらいなのである。
その美学の延長上に「スモカ歯磨」があった。生活のなにからなにまでを「レトロ」でまとめたかった私は、歯磨き粉は「粉でなくては」と思い、東急ハンズで「スモカ歯磨赤缶」を買い求め、朝の歯磨きタイムからレトロな時間を持つことに悦に入っていたのであった。レトロな歯磨には片岡敏郎の新聞広告で有名だったスモカ歯磨しかない。そう信じて、両切りピースの愛煙家だった私は、毎日歯ブラシを缶の中に浸していたのである。
スモカ歯磨の前身は大正十四年にさかのぼる。当時の歯磨き粉は紙袋入りの粉歯磨の全盛時代で、使用中に粉が衣服に飛び散るという欠点があった。寿屋(現・サントリー株式会社)から創製発売されたスモカは、日本で初めて開発された、粉と練歯磨の中間の湿潤した粉(潤性歯磨)で、飛び散らないという利点があり、丸缶に入っていた。五〇グラム入り一五銭で「タバコのみの歯磨スモカ」として全国のタバコ屋で発売、一躍脚光を浴びた。企画立案者は寿屋にいた広告の鬼才片岡敏郎氏であった。
昭和七年には現在の発売元であるスモカ歯磨株式会社が寿屋からスモカの権利を継承し、創製時の原点を守りながらレパートリーを広げていった。それが現在もお馴染みの赤缶であり、緑缶である。戦後はすぐに手持ちの材料でいち早く復活発売したが、「タバコ屋さんの復員が遅れ、戦前にもっていたタバコ屋ルートを絶たれてしまいました」(スモカ歯磨株式会社社長談)愛煙家歯磨の販路は今では薬局や化粧品屋さんだ。
昭和二二年に入社した常務は、「材料を混ぜるのに当時は臼と杵を使っていましたが、現在は機械化されてミキサーです。でも缶には今でも木のヘラで詰めているんですよ」と思い出を語る。最初に詰める役のパートの主婦の熟練の技は1グラム程度の誤差しかなく、次の計量係りが修正していく。なんと手作り歯磨粉だったのだ。
愛煙家人口は減っており、ヤニとり歯磨であるスモカの出番が少なくなったように見受けられたが、そんなことはなかった。最近、あるオールドファンからは、「チューブ入りや義歯洗浄剤よりも、スモカのほうが入れ歯がきれいに洗える」というお礼状が届いたという。「老人ホームでは、手元が震えるお年よりにはチューブが使いづらく、粉を付けるだけのスモカが好評なんですよ」「パラオなどの南洋諸島で、市場規模の割にスモカが売れているので、調べてみたら『べっこう』磨きに使っているようです」と、社長もエピソードを披露する。
昭和三五年に一五〇円で出した赤缶は今でも二五〇円という低価格。コスト高になって採算に苦しみながらも出しつづけているのは「根強いファンが全国に残っている」からであり「メーカーである私たち自身が好きな品」であるからだという。社長は「会社がある限り作っていきます」と約束してくれた。
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