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第17回「駄菓子を買うにも
命をかけて」の巻

日曜研究家串間努



新聞の見出し

 東京都衛生局は31日までに食品衛生法で禁止されている保存料を使った生菓子が都内で売られていたので同日製造、販売業者に回収を命令した。近く業者を営業停止10日間の行政処分にする。
 この生菓子は、足立区T町、M製菓会社(代表・Yさん)が製造していたプラスチックの試験管型容器にはいった生菓子。小麦粉に甘味料を練り合わせたものだが、この中にデヒドロ酢酸、安息香酸(使用禁止)を入れていた。
 M製菓では、さる5月から今月にかけて15万本をつくり、墨田区錦糸町3の10の4、株式会社S(代表・Yさん)ら都内四店の問屋に卸し、この問屋から都内はじめ、関東、東北、九州の各小売店に出回っているという。なお、デヒドロ酢酸、安息香酸を人体が多量に搾取すると、肝臓障害を起こす。
(読売新聞/昭和43年8月31日/夕刊)

昔の駄菓子は「不衛生」の象徴か
 昭和40年代あたりから、PTAのおばさんたち(自分の母も含めてですが)は、駄菓子屋のお菓子は「汚い」という観念を子どもたちに植えつけ始めた。そのため、私と同年代でも「子どもの頃駄菓子屋に行くことは禁じられていた」という体験を持っている人がいる。確かに、駄菓子屋の店頭でうごめく人間たちの衛生観念は現代的ではなかった。売る側は手も洗わずに便所からでてきたばかりの手で菓子を掴んだり、紙袋や包装紙をツバで湿らせた指でめくったり。土間にはほこりや土砂が風とともに入り込み、砂糖菓子は湿気てベタベタになり、アリがたかっていた。子ども側も菓子入れのなかに手をつっこみ、個別包装になっていないなかをひっかきまわして手掴みで取ったり戻したりしていた。親が衛生上、安全に与えられるオヤツはスーパーに流通している大手製菓メーカーの袋菓子や果物だけであった。しかし子どもたちはあえてデンジャラスな駄菓子屋のバイキンの世界に飛び込み、免疫力を獲得していたのである。

 本事件は「試験管ヨーグルト」と呼ばれる駄菓子に関るものである。
 駄菓子屋で売っていた「試験管ヨーグルト」は甘いような酸っぱいような微妙なバランスの安い味だった。粘ちょう度が高くとろみがついているのでヨーグルトかゼリーの類いかと私は思っていたが、製造業者としては「ジュース」という認識だったらしい。桃色のとオレンジ色のがあって、1本5円で竹ひご(竹串の先がとがってないものを想像してください)のくじを引く。オレンジのほうが美味しかったか、色が奇麗だったせいで、子どもの人気は高かった。赤い当たりのひごを引いた場合は、長い試験管を貰える。しかしこの竹ひご、ハズレたからといって捨ててはいけない。捨てたら一生「試験管ヨーグルト」を食べられないのだ。なぜなら、試験管の中に突っ込んでは、竹の先っちょに付着したゲル状物質をなめるからだ。突っ込んではなめ……を延々繰り返す。もちろん中身はなかなか減らない。お金がない時には時間つぶしに大重宝だった。

 しかしだんだん飽きてくるとプラスチック試験管の底を割って、そこからいっぺんにすすって、酢の味にゴホゴホむせていた。たまに破片で舌を切ったり切らなかったり。風のうわさでは、米の粉を蒸かしてすりおろし、粘り気を出した後、酢と砂糖で味付けしたものらしい。私の友人で「ネコカメ」というレトロ系サイトを主宰しているH氏が近年、この製造法の再現を試みたことがある。試作品を食べさせてもらったが、それは確かに「試験管ヨーグルト」の味であった。あれにチクロでもいれたら完璧だろう。あとデヒドロ酢酸もか。

 駄菓子はもともと地域性の強いもので、例えばチロルチョコやカバヤキャラメルは西日本、紅梅キャラメルやライスチョコは東日本と分かれていた。これは販売力つまり流通網の差や嗜好の地域差ということもあるが、もとをたどれば日持ちがしないので、ある地域で作られたものはある地域で消費されるという、日本の昔ながらの食品工業であった。ソースや醤油も昔は地場産業で、全国ブランドの商品などは、テレビと高速道路が発達するまではなかったのである。

 記事によれば関東、東北、九州の各小売店に「試験管ヨーグルト」が流通されていたようだが、このように工業的に大量に製造され、遠隔地域に輸送して販売するためには合成保存料が必要なのであった。防腐剤を使用するのは、微生物の変質や腐敗によるカビや細菌の発生、感染病を防ぐためであり、この業者はデヒドロ酢酸という化粧品などにはよく使われる防腐剤を使用してしまった。この防腐剤は飲用すると気持ちが悪くなったり肝臓障害が起こるという。私は現在、肝機能障害があるが、子どものころたくさん摂ってしまったデヒドロ酢酸ら合成着色料や防腐剤がいけないのだろうか(笑)。済んだことは仕方がない。

 合成着色料にせよ、防腐剤にせよ、時代時代によってその安全性は変わる。その時点での最先端の科学で解明されたことしかわからないのだ。江戸時代には着色料は天然の植物性や鉱物性の色素が使われていたが、明治開国以来、外国との貿易が盛んになると、ドイツで発達してきた有機合成色素(アニリン系。アニリンは劇物に指定されており頭痛、めまい、嘔吐を引き起こす)が輸入されてきた。明治23年の野菜やかん詰の着色には硫酸銅が、昆布の着色には緑青が一般に使われていたという。どちらも毒性がある。また露店で販売されている人形焼の着色料には亜ヒ酸銅(ヒ素化合物の一種)やフクシン(別名・マゼンタ。尿路系腫瘍ができる)が使われていた。鍋や氷屋のさじなどの食器では鉛が簡単に溶けだしてくるものがあり、鉛中毒になる恐れがあった。そこで明治33年には『飲食物其ノ他ノ物品取締ニ関スル法律』が発令され、食品添加物の取り締まりが行われることになった。

 駄菓子屋を通じて、子どもたちの間に赤痢が発生したり、有害添加物を使った事例はかなり多くみられる。しかし、戦後の公衆衛生行政が整わない時期にふん便やハエを媒介として赤痢が発生していたことと、有害添加物の問題はわけて考えなくてはいけない。後者は駄菓子を色鮮やかに奇麗に見せたり、微生物の繁殖を押さえ、遠隔地まで流通を拡大させ、長期間販売できることで返品量を減らすためという、商売上の必要性から使用されているものである。なぜ法定で使用が可能な添加物ではなく、あえて禁止されている添加物を使うのかは製造者の無自覚によるものか、コストが安価だからなのかはわからない。

書きおろし


2007年6月14日更新


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