串間努
第1回「ランドセルランランラン」の巻
小学一年生にとって、ランドセルはとても大きい。小柄な子だとまるでランドセルが歩いているような格好になる。自分の分を背負うだけでも大変なのに、私が子どものころは他人のランドセルを三つも四つも抱えたりした。というのは遊びでである。下校の際に電信柱ごとにジャンケンをし、負けた一人が一緒に帰っている友達のランドセルを次の電信柱まで運ぶのだ。一回くらいならまだいいが、どうかすると二回も三回も連続して負けることがあって閉口した。一人だけ大荷物を背負わされているのを、道行く大人は「イジメ」のように見たかもしれないが、実はジャンケンという一番公平な方法で遊んでいるのであった。ジャンケンで勝ち続けていると楽チンであったが、実はこの遊びの欠点は家に帰るのにとてつもなく時間がかかるのであった。
ランドセルは明治一八年に学習院が使い始めた。この年、生徒の馬車や人力車での通学が禁止になった。お付きの人が学用品を持ってお供する姿を見た学習院関係者が『生徒がひ弱になる』と思ったのだ。そこで、生徒自身に学用品を持たせることにしたとき、両手があく軍用の背のうを採用した。この背のうがオランダ語で『ランセル』と呼ばれていたことから、通学用の背負いカバンを意味するようになったという。『ド』が入った理由はわからない。当初は布製だったが、現在のような箱型のランドセルは、明治二〇年に伊藤博文総理大臣が大正天皇の学習院入学を祝して特注で作らせたものを献上したのがルーツである。
背負うことによって、子供の負担が軽減できる、両手が自由に使えるなどの長所から、児童通学服の洋装化に伴いランドセルは小学生用として、大正末から戦前にかけて女子にまで普及しはじめた。だが昭和一六年頃でランドセルは九円八〇銭、戦前までは都会型の商品とされ、地方では教科書やノートを風呂敷に包んで通学するのが一般的だった。素材は主に豚革が使われ、丈夫であるサメやアザラシの革が使われることもあった。当時は牛革は高くて使えなったからで、もっぱら靴用とされていたのだ。牛革のランドセルが出回り始めたのは、昭和二六年頃からだ。
日本の小学生の象徴のような存在のランドセルだが、市場は厳しい。新一年生は、一九七〇年代末には年間二百万人を超えていたが、いまは一二〇万人を割った。少子化も日本経済の景気低迷に影を落としている。
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