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串間努

第2回「軍人将棋は20世紀のリリック」の巻


 なぜか修学旅行に、「軍人将棋」を持っくるヤツが必ずいた。ボクが小学校六年生くらいだから昭和五十年頃のことだったが、すでに「軍人将棋」は前時代のゲームだった。軍人将棋
 「軍人将棋」というものを知らない人も多いと思うので説明する。将棋の駒の形をしたものが、赤と黄色に塗りわけられ、それぞれに陸軍・空軍の階級やアイテムである「軍旗」とか「中佐」などが描いてある。海軍ものはない。盤面に海が描かれていないからだ。これを紙のゲーム盤に両軍が伏せて並べる。そして、任意のある駒を「突入口」というところから侵入させて、相手の適宜な駒を攻撃すると、競技者以外に1人いる審判が、両方の駒に描かれているアイテムを見て、勝敗を決定する。つまり両軍には相手の駒の配置はわからないので、もう一人、判定を行う「審判員」が必要なのだ。

 昭和五十年当時で軍人将棋の人気が衰えていたのは次の理由からだろう。まず第一に、戦前はともかく、戦後の戦記ものブームも終わり、「戦争を知らない子どもたち」が大半になったから、軍隊になじみがない。コマに描かれた「中佐」と「中尉」はどっちが偉いのかがわからない。
 また、ゲーム性も影響している。当時、少子化という言葉はまだなかったけれども、一人っ子は確実に増えていて、多人数の競技モノがしにくかった。こうした理由で軍人将棋は玩具店の棚の隅でホコリを被っていたのだろう。
 二年くらい前のこと、埼玉県郊外のある科学模型屋で軍人将棋を見つけたので、懐かしくて購入した。お金を払って帰ろうとすると、店主が「軍人将棋はもうこれで絶版らしいですよ」という。軍人将棋は骨董の域に達しようとしているのだ。

●浅草の業者が天童市にあらわれた!
 元祖軍人将棋の駒を制作していた中島清吉商店は、明治十年の創業だ。先祖は元織田藩、天童市の士族であった。織田藩は富裕では無かったので、藩士たちに将棋のコマ作りの内職を督励した。そのため、中島清吉商店の初代中島為三郎も駒の内職をしていた。
 現社長は中島幾子さん。昭和四十五年に三代目となったのは、ご主人が県の職員だからである。
 明治末期。浅草の西口商店の初代、西口栄助氏が、中島為三郎から、無刻(何も彫ったり描いてない)の将棋駒を作ってもらい、南京袋に詰めて東京に持ち帰った。これが軍人将棋の始めである。木材はそこらへんの林でとれ、安い駒に使う「朴」だ。
 黄色のコマはオーラミン、赤いコマは赤の染料で染めて、「中佐」などのスタンプを押していた。
 西口栄助氏はゲーム関係の店に勤務していたらしい、そこで将棋を売って見たらと思い、何かのつながりがあって、駒を買いに中島清吉商店にきたらしい。いまとなっては両店の関係ははっきりとはわからない。
 また、誰かと相談をしたのかもしれないが、西口さんが行軍将棋のルールを考案したことになっている。
 中国生まれの将棋は、もともと軍事に関係ある。西口氏は多分、「金将」「銀将」などをみて、「大将」「中将」がひらめき、もっとリアルに軍隊化して児童の遊戯ゲームとしたのではなかろうか?

●軍人将棋には種類があった?

 軍人将棋には「行軍」と「大行軍」がある。
 「行軍」は駒が小型で枚数も1軍が23枚、「大行軍」は31枚。
 小型は工兵が2、タンクが2、地雷が2、少佐・中佐・大佐が各1、ヒコーキが2、少将が1枚と8種8枚足りないのである。
 商品の差別化をすることで、レパートリーが広がり、売り上げも伸びる。ビジネスの観点から金額的に高いモノと安いものを作ったものと思われる。明治末期のものは「小型行軍」である。
 最初は値段が安いこともあってか、小型の方が売れていた。これは昭和50年代まではあったという。そして、昭和七・八年頃のカタログを見るとこのころにはもう「大型行軍」が出現している。
 昭和に入ると、西口商店が無刻印のコマを買っていくのではなく、中島清吉商店のほうであらかじめ染めて、スタンプの捺印もすることになった。
 現社長は4・5歳のころから、染めるのを手伝わされという。もともと将棋作りが盛んな天童市では「書き屋」といわれる子どもたちが、学校が終わった後に「歩」などの駒を手書き内職している伝統もあったのだった。
 一番大変なのが乾燥であった。また、箱に詰めながらスタンプを押していたので、『駒が足りない』というクレームがあったりもした。
 昭和十七年から二十年にかけては、慰問袋用の需要があったので良く売れた。これが軍人将棋のピークと言ってもいい。軍人が戦場で軍人将棋をやるというのも実にシュールである。
 ゲーム盤は、昔は白黒だったが、昭和六十年頃からカラーになる。
 木製にしたらよいものと思われるが、軍人将棋の場合、プレイヤーのどっちがどっちに勝ったかを判定したりのルールを載せないといけないので、説明書つきの紙のゲーム盤にするしか無かったのだった。
 箱は昔はボール箱の表面にラベルを張っていたが、昭和三十年代後半からは印刷箱になった。
 昭和40年代には西口商店が「ミサイル行軍」をつくってくれと申し出てきた。しかし中島商店では軍人将棋の製造もあるし、本来の将棋製作もあるので忙しく手が回らない。「できない」と申し出ると神尾商店で製作することになった。しかしミサイル行軍はそれほど売れない。
 軍人将棋は昭和30年代には1箱200円くらいで、売上げの40%を行軍将棋が占めていたが、だんだん売れなくなると高級な将棋駒の製造にシフトして行く。
 三人いないとできないのも、少子化の波の中では難点であったろう。これを克服しようとして大手玩具メーカーで、電動の軍人将棋を作ったのを見たことがある。
 中島商店では平成に入ってから製造を止めた。最後は1箱800円だ。
 西口商店は軍人将棋から天童とつながりができ、東京で将棋を扱う大問屋に成長した。
 将棋と軍人将棋と平行して売っていた西口商店は今では任天堂の関東・東北総代理店になっている。テレビゲームが軍人将棋を駆逐したのかと思っていたら、なんと発売元自体が任天堂の仲間入りをしていたのだった。
 虎穴に入らずんば虎児を得ず。あ、ちょっと違うか。

●「はるか」(光文社)で取材したものを抄録加筆改稿


2002年6月12日更新
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