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トランポリン・松岡

第六回『ジュンとネネではなく、VANとJUNの話』


ジュンとネネ 「バン・ジュン」とくればアジャパーの伴淳三郎と答えるのは日本映画通で、頬に小さな泣きボクロのジュンとネネと聞き返すのが歌謡曲通。「バン・ジュン」と言われると、断然、服装で言うVANとJUNを思い浮かべる僕である。
 タイガース等の五年間程続いたグループ・サウンズ人気が下火になり、吉田拓郎やかぐや姫等のフォークソングが全盛期を迎える七十年代、僕の二十代は、VANのトラッド派だJUNのヨーロピアン派だとファッションも大きく二分されていた時代で、多くの若者がどちらかの服装で過ごしており、けっこうお互いを敵対視する程の関係であったのだ。
 当時、VANの店にJUN思考の若者は出入りしなかったし、またVAN思考の人間がJUNの店に入ることはなく、実際に、その服装は細かい所まで大きく違った。
 例えば、ベルトはドレスベルトかコードバンベルトが普通でズボンもストレートのVANに対してパンタロンのJUNとか。髪型も普通の刈り上げが基本でカジュアルっぽいVANに対して、今で言うロンゲが多く大人のセンスを売り物にしていたJUNである。
 履く靴も全然違っていた。VAN派がコンバースのスニーカーやリーガル等のデザインブーツ、プレーントウやウイングチップ、ローファーなどごく普通のデザインであれば、JUNは踵の高い脚を長く見せるあのエルトンジョンのポックリ的な靴を好んで履いていた。

VAN集合

 勿論、僕は、キャンパスファッションと言われたVANのトラッド派。勿論と言うのはチョットおかしいのであるが、当時の僕は、身長百七十センチ、体重五十八キロ、脚の長さも普通で体系的には中肉中背。
 バイト先で松本清張ジュニアと呼ばれていた僕は、格好の良いホストタイプとスラッと長身で細みの体型によく似合うJUNは無理と自分で判断。偶々VANを選んだだけであり、例えば、若い女性に超人気で股間のマグナム砲騒ぎと十メートル先からフンワリ香水の良い匂いのすることでも有名なガクトのように僕もしなやかな長身で腰も細くスラッと脚も長ければ、JUNに走っていたかも知れない。
 ただ、だからと言って、必ずその条件にあった者だけがそれぞれを選んで着ていたかと言えばこれまた嘘で、実際にはVANにも、例えば、チャコールグレーのスーツに白ソックスを履くというマニュアルから一億光年程外れているいい加減な常識ハズレの着こなしのヤツがいたり、また細くて長身が多いJUNにも中背でガッシリと猪のように小太りで高価な白いワイシャツもピチピチ、ズボンの太腿・尻パンパンの、JUNの店員が見たらショックで一週間寝込む程のJUN野郎も僕の周囲にはいたわけである。
VANイラスト トラッド派だった僕は、それこそ、ワイシャツの襟はボタンダウン、スーツは三つボタン一つかけ。腕の所は二つボタンで、センターベンツ。ズボンの裾幅は23.5センチ、ダブルが常識で折り返し幅は3.5センチとか。ネクタイ幅は4.5センチまでで基本はレジメンタル、ストライプ等。色々な点で細かく決まりがあり、コートからスーツ、ブレザー、綿パンまでVANやKENTといったブランドで全て揃えていた。
 しかし、そんなトラッド派の僕も、年齢と共に肥満と言う障害が訪れ、サイズがゆったりしているKENTやJ.プレスも無理となり、最後は東京・青山にできたブルックスブラザーズという外国人的に大きめにできているブランドにまで手を伸ばした僕であるが、このブルックスブラザーズも着辛く僕には丈と手が余るほど長く、結局、太る一方のその後、トラッドから身を引いた?のである。
 まあ、この頃にはニュートラだ、ハマトラだとか言った流行を取り入れたニューハーフのような新種が次から次へと幅をきかせ、初期のカチッバシッとしたトラッド派で育った僕などには理解できないトラトラの出現に拘りを失い、どうでも良くなっていた。
VAN三つボタン 例えば、チェック柄のワイシャツには無地のタイ、無地か縞柄のワイシャツにストライプタイだとだいたい基本は決まっているが、スーツ・ネクタイに平気で禁断の白ソックスや、チェック柄のワイシャツにストライプタイを平気でするような着こなし見本に、それこそ僕などアジャパーと叫びたい程の超腰砕け状態。
 三十歳を過ぎ体重が九十キロ近くに増え、原稿を抱えて銀座・和光ビルの前を走っていた時にTシャツに乳首が擦れて痛くて蹲った僕には、VANのバの字もトラッドのトの字もなくなっていた。
 「バン・ジュン」からの連想に、スバリ、VAN・JUNと答え、現在でもズボンは綿パンまで裾はダブルなどとトラッドの名残をソコカシコに残しながらも、例えば、Gパンの下は、千人に一人もいないであろう白綿の越中褌一枚。
 そのソレで一年中過ごす五十一歳の僕は、口でどんなに賑やかに弁解し昔のアレコレを騒いでも、現在はVANもJUNもハナエ・モリも関係ない携帯電話でよくある圏外的生活なのであるから凄くムゴイ話である。トランポリン・松岡


2002年9月6日更新


第五回『夏は怪談映画、あの映画看板も僕を呼んでいた。』
第四回『青春マスターベーション』
第三回『ワッチャンの超極太チンポ事件』
第二回『中高年男性、伝説のモッコリ。スーパージャイアンツ』
第一回『トランポリンな僕のこと、少し話しましょうか。』


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