アカデミア青木
第6回 紙芝居屋さんと「免許」の話
小生が初めて紙芝居を見たのは昭和45年。本編の内容は定かでないが、終わりに「ウルトラ怪獣」のシルエットクイズがあったことは今でもよく覚えている。「レッドキング」や「ゴモラ」などの名前を当てるものだが、正解すると水飴やソースせんべいがもらえるとあって、見物していた10数人の子供は一斉に手を挙げて、「ハーイ」、「ハーイ」と大声を出しておじさんにアピールしたものだ。さて今回の昭和のライフは、そこから遡ること20年、紙芝居全盛期の紙芝居屋さんと彼らが持っていた「免許」について取り上げる。
・紙芝居の復活
昭和20年秋、GHQは軍国主義に協力したとして8月15日以前に製作された紙芝居を回収して焼却した。この措置により紙芝居は一旦日本から消滅する。11月に街頭紙芝居復活のため紙芝居製作貸出会社「ともだち会」が設立され、紙芝居復活第一作として加太こうじの『黄金バット』がGHQの検閲を受けた。実際に紙芝居の上演が始まったのは翌年の1月。8月には東京の製作貸出業者は6社となり、説明者(紙芝居屋さん)は約800人となった。説明者の数はその後も増え続け年末に1500人余り、23年末には3000人となった。紙芝居の絵は東京で使われた後、昭和22年に横浜へ進出、関東一円で使われてから東海道を西へと下っていった。一方関西では昭和23年頃紙芝居の製作が始まり、この年、ヤミ市から転職する者もあって全国の説明者の数は3万人となった。
・「紙芝居条例」制定
このように説明者が増えると逆に業者間の競争が激しくなり、説明者同士の喧嘩はもちろん、製作会社の中にも子供の気を引こうと「エロ・グロ紙芝居」に手を染めるところが出てくる。そのため父母の間から「不健全な紙芝居を取り締まるべき」との声が上がり、説明者を取り締まる条例が全国で制定されていった。まず昭和24年3月に神奈川県が「神奈川県紙芝居業者条例」を全国に先駆けて制定、6月に千葉県が、7月には埼玉県がこれに続き、昭和27年までに2府13県で条例が作られた。(表1)
「神奈川県紙芝居業者条例で定められた免許証の様式」 |
その内容はおおむね次の通りであった。
1.知事の行う紙芝居業者試験に合格した者でなければ説明者になれない。
2.試験は、筆記試験(国語、算数、社会)、口述試験(児童福祉、保健衛生、公安交通)と実地試験。
3.合格者には免許証を交付し、公報に告示する。
4.説明者は卑猥な言動、見苦しい服装をし、射倖心の誘発、保健上有害な物品の販売、その他児童の福祉上悪影響を及ぼすおそれのある言動をしてはならない。
5.関係行政庁の職員や児童委員が説明者の指導監督を行う。
6.無免許の説明者には、懲役・禁固・拘留もしくは罰金・科料を科す。
7.免許証不携帯、免許証の譲渡・貸与、4.に違反した場合は免許を取り消すことができる。
尚、従来の説明者に対しては講習会を開き、修了者に免許証を交付する措置が取られた。
紙芝居の中心地であった東京都では紙芝居製作者と貸出元が結束して条例に反対、24年10月に東京紙芝居審査委員会を設立して説明者を対象に講習会を実施、修了者には「認定証」を交付した。ところが半年もしないうちに、傘下の説明者の数を増やして利益を得ようと、進んで取り決めを破って認定証を持たない「もぐり」の説明者を抱える貸出元が現れ、制度は骨抜きとなっていった。
・当時の紙芝居屋さん像
幸か不幸か紙芝居条例の制定された府県では合格者を公報に掲載するため、それにより説明者の消長を追うことができる。ここでは、『神奈川県公報』に告示された説明者の動向を分析する。(表2)
紙芝居条例が制定された昭和24年度末に、免許を取得した者は442人いた。442人も説明者がいると、子供達は1日に何度も紙芝居を見るハメになってしまう。前年の23年5月に横浜の主婦が新聞に寄せられた投書(『朝日新聞』S23.5.22)によると、1日に3回、多い時で5回回って来たという。終戦後の物資不足の中、絵本・おもちゃ・映画をろくに与えられなかった子供達にとって、紙芝居が唯一の娯楽であったから、このような頻度でも受け入れられたのだろう。25年度〜28年度にかけて、新規に説明者になるものは平均して毎年50人前後。廃業者の動向については公表されないので、説明者の総数は残念ながらわからない。新規免許者のピークは29年度で、115名と例年の倍の水準であった。一般的に「テレビの本放送が始まった昭和28年末以降紙芝居は衰退期に入る」と言われているが、神奈川県で新規免許者数が目立って減り出したのは31年度からで、定説といくぶん時差がある。『1960日本国勢図会』で当時の1世帯当たりのテレビ普及率(全国)を調べると、30年度末に0.9%、31年度末に2.3%、33年度末に9.1%となっており、ある程度テレビが普及するまでは紙芝居は頑張れたのだろう。
ある時期の神奈川県公報には、新規免許者の生年月日が記載されている。それを利用して年齢構成を見てみよう。表3を見ると、20〜24歳、30〜34歳、45〜49歳の3ヶ所にピークがあることがわかる。20〜24歳は新規の求職者、45〜49歳は昭和10年代の説明者の復帰と考えられるが、30〜34歳については背景が定かではない。昭和27年という年は4月に砂糖の統制が解除され駄菓子製造業者の廃業が相次いだ年なので、そこからの転職者か、または昭和24年末からレッドパージで企業を追放された者が紙芝居へと転じる動きが続いていたので、その関係者であったのかも知れない。男女の比は、男性が常に女性を圧倒していた。この時期、女性は内職代わりに自宅で「駄菓子屋」を開くことが多く、それでそこそこの収入があったため、家事を放り出して街頭で紙芝居をする気はなかなか起こらなかったのだろう。
・紙芝居の衰退
昭和32年以降、テレビや幼稚園の普及、児童向け図書の充実、メーカー菓子の洪水、交通事情の悪化などの原因により、紙芝居を見る子供は減っていった。それに従い説明者の数も減っていき、神奈川県では34年4月を最後に新規免許者が現れなくなった。紙芝居試験開催に関する公告も同年9月をもって掲載が終わった。説明者がいなくなれば、「紙芝居条例」は無用の長物となる。昭和37年の千葉を皮切りに、次々に各地の条例は廃止されていった。
しかし、「子供に有害な出版物・映画等を追放しよう」という精神は、後年「俗悪テレビ番組を追放しよう」という運動や「青少年保護育成条例」へと引き継がれ、どっこい今でも生きているのである。これについては、機会を改めてまた取り上げることにする。
[参考文献 |
加太こうじ『紙芝居昭和史』立風書房 昭和46年 |
浅井清二『紙芝居屋さんどこ行った』 『紙芝居屋さんどこ行った』刊行委員会 平成元年 |
(財)矢野恒太記念会編『1960日本国勢図会』 国勢社 昭和35年
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『紙芝居』8号 日本紙芝居協会 昭和25年6月 |
各都道府県条例集 |
「紙芝居条例」制定府県の公報(公布、廃止時期の確認) |
『神奈川県公報』昭和24年3月〜昭和35年12月] |
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2002年9月25日更新
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