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「ポップス少年」タイトル

リトル・R・オノ
小学3年か4年生の頃
「トラブリン・マン」
第6回 “ティーンエイジ・アイドル”を地で行くシンガー

 日本では天才少年ポール・アンカの人気に隠れてしまった同世代のリッキー・ネルソンは、本国アメリカではデビューからヒットを飛ばす。1957年のデビュー・シングル「アイム・ウォーキン/十代のロマンス」はいきなり全米2位という快挙。それもそのはず、彼の場合、両親のオジー&ハリエット・ネルソンがバンド・リーダーとその専属歌手としてショウ・ビジネス界で活躍していて、『The Adventures of Ozzie and Harriet』という人気テレビ番組を持っており、出演していたリッキーも名子役として幼い時から人気があったというから十代でアイドル歌手になったといっても納得できるわけです。翌58年になっても出す曲出す曲が大ヒットする。そのなかに「ロンサム・タウン」という曲がある。数年前、ポール・マッカートニーが亡くなった妻リンダに向けて「二人が知り合うずっと昔、この曲が好きで、大西洋を挟んだ違う場所で、同じ時期に聴いていたんだね」というMC(確かそのような主旨)のあと「ロンサム・タウン」を歌いました。「ドラマだなあ」と思いつつ、「良い音楽はこんなふうにして受け継がれていくんだなあ」としみじみしながらポールの歌を聴きました。おそらくリンダがよっぽどこの曲が好きだったんで、彼女に捧げるに相応しいMCをポールは考えたんだろうけど。

「プア・リトル・フール」

「プア・リトル・フール」 Poor Little Fool リッキー・ネルソン
 「ロンサム・タウン」は「淋しい町」という邦題があるぐらいなので、日本でもシングル発売してたかもしれないが、見かけたことがない。いずれにしても“しんみりバラード”なので出していたとしても売れてはいないはず。全米1位の「プア・リトル・フール」はミディアム・テンポだが、日本受けしないと見られたのか、B面だった。顔が少し関根勤風。

 日本でリッキー・ネルソンの歌がヒットする前年の60年に『陽気なネルソン』(『The Adventures of Ozzie and Harriet』の邦題)というネルソン一家が主人公のTVドラマが始まります。その中で、リッキーは、たまにバンドを従えてあの無表情な顔で歌うシーンがあり、私はそれが楽しみだった。そう言えば、あのバンドの中に名ギタリストのジェームズ・バートンはいたのだろうか。それはともかく、日本で最初にヒットしたのは61年になってからで、「トラブリン・マン/ハロー・メリー・ルウ」のカップリングで発売され、B面の「ハロー・メリー・ルウ」の方がヒットした。我が家ではシングル盤を我慢して63年に『リック・ネルソン・ベスト・セラーズ』という14曲入りのベスト盤を買い、ようやく「ロンサム・タウン」や、やはり58年の大ヒット曲「プア・リトル・フール」などを知ることになります。62年の途中でリッキーという子供の愛称のような名前をリック・ネルソンに変えますが、ちょうどその頃「ティーンエイジ・アイドル」という自らを地で行くような歌(“Some people call me a teenage idol”と歌う)をヒットさせます。日本で最大のヒット「ヤング・ワールド」も62年でしたね。

「トラブリン・マン」

「トラブリン・マン」 Travelin' Man リッキー・ネルソン
 全米1位のA面は、“トラブルばかり起こす男”のようなタイトルだが、旅行のトラベルの方です。B面もベスト10ヒット曲。日本人好みなのは軽快な「ハロー・メリー・ルウ」で、「ルイジアナ・ママ」のジーン・ピットニー作だった。ジャケットは映画『リオ・ブラボー』(59年)に出演時の写真。これだとC&Wの歌手のようだ。


「ヤング・ワールド」

「ヤング・ワールド」 Young World リッキー・ネルソン
 デビュー曲の「10代のロマンス(A Teenager's Romance)」といい、この「ヤング・ワールド」といい、“青春”を全面に押し出したタイトルが多かった。


「ティーンエイジ・アイドル」

「ティーンエイジ・アイドル」 Teenage Idle リッキー・ネルソン
 この時にはもう“リック”・ネルソンになってたはずだが、ジャケットの表記は愛称リッキーのまま。


『リック・ネルソン・ベスト・セラーズ』

『リック・ネルソン・ベスト・セラーズ』 Best Sellers By Rick Nelson リッキー・ネルソン
 バラードとミディアムが大半で、ロックンロールも歌っているが、激しさもセクシーさもない。このアルバムのなかでは、やはりリンダ・マッカートニー同様「ロンサム・タウン」が好きだった。

 話はがらっと変わりますが、1958年と言えば、プロ野球界に大物が入団した年です。そうです、中日ドラゴンズに入った江藤慎一ですね。ん。まあ巨人にも長嶋茂雄が入団したりしてましたけどね。我が家は東京の世田谷に住んでいながら一家をあげての中日ファンなので長嶋とか眼中にないのです。野球帽はもちろんCDマーク、中日ドラゴンズです。当時は男子全員が野球少年でしたが、周りを見渡してもCD帽を被ってるヤツなんか誰もいません。ほとんどがG帽。で、中日も強ければいいのですが、いざという試合になると巨人に負けてばかりで(テレビでは巨人戦しかやらない。つまり巨人対中日、巨人対阪神、巨人対国鉄、巨人対大洋というように)、クラスでは寂しい思いを味わいました。あの頃の悔しさを思うと、現在の巨人の弱さはたまりませんね。もう笑いが止まりません。
 そう言えば、私は小学時代の6年間、クラスの仲間と毎日のように“ゴロベース”をしていましたが、この遊びは全国共通ではないのですね。といって東京だったらどこでもやっていたというわけでもないらしい。かなり片寄ったところでしか行われていなかった遊びなのでしょうか。やわらかいゴムマリを地面にゴロで転がして投げて打たせる野球の変型バージョンなのですが、ゴロでカーブやシュートを投げて三振させたりするのが快感でたまらない。あるいは、バッターボックスに立つと両手を拝むようにして組み、左の親指で右の親指の外側からぐいっと手の甲へ押し上げ、ボールを打つギリギリまでそうしておいて右の親指を手の甲にピタッとくっつけたままその親指のサイドでボールを捕らえて打つ、というテクニックなど、話題に事欠かないのですが、大人になってから“ゴロベース”について共通の体験をした人に会ったことが一回もないというのはどうしてでしょうか。

小学3年か4年生の頃 小学3年か4年生の頃
 G帽を被っているのは親友G藤君。CD帽はデパートにも売ってないことが多かった。揃いのユニフォームを着ているが、二人が特にリトル・リーグとかに入っていたわけではない。この格好で家の近くでキャッチボールをした憶えはあるのだけれど…。

 日本シリーズを久々に見たので話が脱線してしまいました。で、話を戻すと、海の向こうでは彼のようなティーンエイジ・アイドルが次々と出てきてポップスを歌ってはヒット・チャートを賑わしはじめる。一方、この58年の3月にエルヴィス・プレスリーが入隊します。教育上よろしくなかったエルヴィスが軍隊に入りリーゼントをGIカットにする。不良が更生していきなり体育会系なっちゃった、みたいな。彼が60年まで軍隊に入っている間、ロックンロールの軟弱化が始まり、軽めのスウィート・ポップスの時代になっていくのですね、すごく大雑把に言うと。後世の音楽評論家はこの時のロックンロール衰退を嘆きますが、私のような、不良に憧れるにはまだちょっと早い少年にとっては、激しいロックンロールから軟らかいポップスに流れが変わっていくからこそ取っ付きやすく、洋楽にどっぷり漬かることができたとも言えるわけで、とても良い時代に遭遇できたと思うのです。
 そんなこの年を象徴するようなバラードが2曲あります。もちろんアメリカでの話です。エヴァリー・ブラザーズの「夢を見るだけサ(All I Have To Do Is Dream)」。そして、またまた1940年生れの18歳フィル・スペクターの自作曲、テディ・ベアーズの「会ったとたんに一目ぼれ(To Know Him Is To Love Him)」で、2曲とも全米1位の大ヒット曲になりますが、日本では箸にも棒にもかかりませんでした。因にやはり18歳のジョン・レノンが当時アマチュアバンド(クオリーメン)でこの曲をカバーしているので、イギリスでは影響力は強かったのだろうと思います。日本ではアイドルはとにかくポール・アンカ一辺倒でしたから、他はなにもかにもダメでした。

「会ったとたんに一目ぼれ」

「会ったとたんに一目ぼれ」 To Know Him Is To Love Him テディ・ベアーズ
 このレコードはあまり持っている人いないと思いますが、ジャケットを見る限りではおよそ「売りたい!」という意志がレコード会社に感じられない。アーティスト写真がないにせよ、音を聴かずにデザインしたとしか思えないひどい出来。

 この年に日本でヒットしたなかで私が憶えている曲は、「河は呼んでる」「クワイ河マーチ」「鉄道員」とすべて映画がらみの曲です。映画のサントラでインストなのに日本では中原美沙緒が歌ってカバーした「河は呼んでる」は、「ミード ミード ミードレー レミファレーミドーレー」と音階で憶えています。リコーダー(当時は“たて笛”と呼んでいた)でいつも吹いていた記憶があります。『戦場にかける橋』の主題歌である「クワイ河マーチ」はミッチ・ミラー合唱団が口笛でメロディを吹くので、みんなマネて口笛吹いてました。なかには口笛を吹こうとしてもシューシューと出るのは空気だけでどうしても音が出ない不器用な人もいましたね。当時は一般的に口笛を吹くのは行儀が悪いと躾けられていましたから、大人たちから見ればアメリカからの悪しき影響に眉をひそめていたかも知れません。ミッチ・ミラーはその後、『ミッチと歌おう』というテレビ番組が63年から日本でも放送されます。映画『鉄道員』の主題曲は、途中でサイレンが鳴り、映画を観てなくても哀しさいっぱいになってしまう切ない音楽でした。この曲は「ユア・ヒット・パレード」(文化放送)で聴いた印象が深いですね。

「河は呼んでる」

「河は呼んでる」 L'eau Vive 中原美沙緒
 映画の舞台であるアルプス山麓の写真に、申し訳なさそうに中原美沙緒の顔を挿入してあるのが微笑ましい。昔はこのパターンのジャケットが多かった。

※印 画像提供…諸君征三郎さん


2004年11月2日更新
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第5回 自作自演のハイティーン・シンガー、ポール・アンカが来日した1958年
第4回 1957年の異色ヒット・ソング
第3回 肝心のロックンロールが伝わらなかった日本…1957年
第2回 反抗する若者たちの時代、到来…1956年
第1回 昭和30年代初期の洋楽…“ロックンロール元年”の1955年


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