串間努
第3回「マキロン30周年」の巻
昭和四五年ころ、軍艦マーチのメロディーで「ABCD階段で、カニにチンポコ挟まれた…」と始まる替え歌が、千葉では流行っていた。この一節に「赤チン塗ったら真っ赤ッか」ということばがあった。当時は、傷薬といえば赤チン。半ズボンを履いたチビッ子たちは、膝頭を真っ赤にして空き地を走りまわっていた。水銀が入っていたせいだろうか、傷口は夕陽を浴びると、キラキラと金属色に反射していた。
私は小学校では六年間保健係であった。怪我をした同級生を保健室に連れていくのが主な役目だ。だが、あいにく養護の先生がいない時、わたしはニヤリと笑う。保健室に用意された道具で、手当をするのだ。保健の先生は簡単な怪我なら子どもたちに手当をまかせていた。限りなく本物に近いお医者さんごっこは楽しい。私は怪我マニアで、自分のちょっとしたけがでも大袈裟に包帯を巻くのが大好きな子供だった。図書館で「包帯の巻き方」なんて本を借りて、解けにくい巻き方を研究したりするマニアック少年であった。
友人をモルモットに治療は行われた。まず傷口をオキシフルが染み込んだ丸い綿球で洗った。血と混ざりあった濁った泡が沢山でる。コーラみたい。しみて痛がる友人をよそに、私はすりガラスでできた丸いフタを開け、赤チンをつける。この赤チンも丸い綿球であった。これは服につくと厄介なので、ギュウギュウ強くピンセットで挟み、余分な液をしたたり落としておく。赤チンをつけた後、ホントは黄色いアクリノールをつけたガーゼを当て、油紙の上から包帯を巻きたいところだが、いろんな薬をつけてはマズイだろうという抑制が働いてやめる。「もうこれでいいよう」と逃げの態勢に入っている同級生患者を無理に丸イスに座らせ、白いガーゼをあて、バンソウコウで「井」の字で固定。これがいつものパターンであった。しかしその赤チンも五年生ころにはなくなり、ラッキョウ型のマキロンに代わった。スプレーで、傷口に噴射すればよい。私は職を失った……。
マキロンは昭和四六年、色がつかない救急薬として発売された。それまで傷薬の主流だった赤チンは、水銀製剤が問題になったことと、色がついていて創傷面が見えないこと、脱色が困難という欠点があった。また他の傷薬、例えばヨーチンは、含まれているアルコールが刺激性だし、オキシドールは発泡性に依って傷口に深くバイキンが入ってしまう可能性がある(赤チン・ヨーチンの『チン』はチンキ剤=アルコールに溶いたものを指す)。そこで、毒性や刺激性が少なく、不快な色や臭気がない消毒薬が外科領域で求められていた。それに応えてマキロンが登場した。
山之内製薬はもともと病院で使う薬の製薬メーカーだったが、マキロンの発売で一気に、一般の人々にんも知名度が高まってゆく。
「学校の保健室に営業をかけて広まっていきましたが、平成五年をピークに傷薬市場は縮小の傾向にあります。原因は、少子化でお子さんが少なくなったこと、道路が舗装されたり、半ズボンをはかなくなったので、転んで怪我をする機会が減ったためです」(山之内製薬)
なるほど、「舗装道路」というインフラ整備やファッションの流行の変遷で子どもが足のケガをしなくなったというのは面白い。
マキロンはただの傷薬ではない。その含まれている成分によって、殺菌消毒のほか、痛み止め、止血、かゆみ止めの効果もある。いわば『傷のトータルケア』をする初めての商品だった。ひげそり負けや痔の消毒のほか、面白い使い方をする人もいる。女性誌で紹介されたことで口コミで広がったのだが、脇の下の臭いの事前ケアにマキロンを使う方法もあるという。雑菌が臭いの元になるので、消毒してから制汗剤を塗ると効果が持続するということだ。
スプレー式と洗浄式の二つに使いわけられる画期的な容器として登場したマキロンは、今日も私たちの救急箱の中で出番を待っている。
●毎日新聞「2000年モノの誕生日」を附加改稿
2002年8月22日更新
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