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第5回「給食のカレーシチューの謎」の巻
 
串間努


 「カレーシチュー」は日本の料理の中で特異な存在である。カレーシチューを日常的に家庭で食べるひとはまず、いない。カレーシチューをメニューに載せている洋食屋はたぶん、ない。エスビーやハウスがたくさんのカレー商品を出しているが、「カレーシチュー」を商品化したことは、おそらくない。だけどある年代以下のヒトなら誰でも知っている。 給食のメニューの王様だったからだ。酢豚や八宝菜が出る日は憂鬱だったが、カレーシチューが出る日は、四時間目が終わるのが待ち遠しく、おかわりできるかどうかドキドキしたものだ。家に帰って、母親に「カレーシチュー」を作ってくれと何度頼んだことか。
 学校給食でしかみかけたことがない「カレーシチュー」はどうして生まれたのだろう。
オリエンタルカレーの広告人形
文章と写真は
関係ありません。

●学校給食へカレー導入

 日本の学校給食の本格的はじまりは戦後。終戦後の食糧難の時代に、ララ物資(LARA・アジア救済公認団体の略)によってスタートした。昭和二十一年十二月、東京で八十九校に試験的に実施され、漸次拡大していった。昭和二十一年末のララ物資は「チーズ、バター、エバミルク、レーズン、ポークチョップ、ミート&ビーンズ、トマトジュース、グレープフルーツジュース、グリンピース、パイン、干しりんご」であるが、この材料からではまだカレーシチューは作れない。
 日本で初めてカレーシチューを食べたのはおそらく東京都の中学生である。昭和二十三年のことであった。
 カレーが日本人の「国民食」となった理由として、陸軍、海軍の食事(兵食)で出されたことで全国から徴兵された男子の舌になずんだこともあろうが、軍がなくなってからは、学校給食がカレー普及の要因になった。
 エスビー食品の創業者である山崎峯次郎は、日本の家庭にカレーやスパイスを普及させた第一人者であるが、戦後は学校給食へカレーを導入するにあたって、力を尽くした人物として知られる。
 山崎峯次郎を始めとするカレー業界は需要拡大のため、学校給食市場に目をつけた。しかしカレーを学校給食のメニューに取り入れてもらうには、カレー粉に公定価格がつかなくてはならなかった。「公定価格」は、物価安定のため、国民生活に必須の物資について行政が価格を決めるという統制価格で、農林省が査定を行っていた。最初は「米・味噌・醤油」という基本的な食材だけであったが、牛乳など他の食品業界も「ぜひ公定価格をつけてくれ」と農林省に運動、カレー業界もまた、山崎峯次郎を先頭に公定価格の取得に動いたのであった。
 これが成功し、公定価格を得たカレー業界は、文部省にも協力を願い、昭和二十三年四月に業界の手持ちカレー粉原料二〇トンを東京都内の中学校学校給食に納入することができたのであった。
 そのころのカレー業界は、戦前から続く原料の途絶に苦しんでいた。ウコン、ターメリック、ペッパー、ニクヅクなどの香辛料は主として東南アジア各国からの輸入に頼っていたのである。戦争によって輸送船が原料生産地から日本に原料を運ぶことができず、また、空襲によって工場は破壊され、倉庫の原料も被災してしまった。手持ちのカレー原料とは、焼け残ったストック原料だった。
 当時のカレー粉の需要は年間に五百トンといわれていたが、原料不足で九十六トンしか生産できない状況であった。
 カレー給食が好評で迎えられたことで、農林省の心証が良くなったのか、農林省は即席カレー原料として澱粉六〇五キロの割当てを行った。これに進駐軍の放出香辛料五トンを加え、カレー業界は都内の家庭一三〇世帯のみにだが(少ないねえ〜)、即席カレーの配給を行った。
 翌二四年にも三〜五月まで三カ月分として学校給食用として五トンを受注、関東カレー工業組合傘下の一八工場が東京二三区の各学校にカレー粉を納入した。世田谷、板橋、杉並、芝の一部で品質に難点が指摘されたそうだが、これもほぼ好評だった。
 カレー粉を学校給食で使ってもらうことは需要の拡大が望め、業界にはありがたい納入先であったが、東京都側から「地区別に受け入れ条件も違うので、各学校と直接取引していただきたい」と要請された。しかし直接取引にすると代金回収の点で難があるとして、各企業は消極的となり、これ以降都に納入するのは打切りとなった。
 しかし学校給食の市場は業界にとって魅力的であり、全国的に展開しようと文部省に働きかけたが、結局立ち消えになってしまったという。
 その後のいきさつについては資料が不足しているため推測するしかないが、やはり子どもたちに好評だったということ、野菜を使用しまんべんなく栄養をとれるメニューとして手軽だったことなどから、カレーの要望は持続したのだろう。業界的に動くことはなくなっても、各学校が独自にカレー粉を仕入れ、全国の給食現場でのカレーメニュー作りの火は絶えることはなかったのではあるまいか。

写真提供:「ネコカメ」さま
http://homepage1.nifty.com/nekocame/
※下も

あげパンとカレーシチュー

●カレーシチューを作ったのは誰だ!

 カレーが戦後の学校給食に導入されたいきさつは前項でわかっていただけたかと思う。残るはそのカレー原料を給食のメニューにするとき、なぜカレーシチューという、日本人には馴染みの薄い(現在もだ)特殊な献立として生まれたのかという問題である。
 カレーシチューがカレーと異なるのは粘度の違いだ。私が小学生だった頃はルーよりは粘度が薄かったが、それでもクリームシチュー並みのトロミはあった。だが、一番初期の頃のカレーシチューはカレーの味がするコンソメスープとでもいうほど、ホントに薄いものであったらしい。
 おかずのパートナーの観点からみると、いまでこそ、米飯給食があるから、カレーが給食に出るのは納得ができる。しかし100%コッペパン給食だった時代には濃いカレーを出すことは、「ライス」がないために難しかったのでないだろうか。実際にフランスパンにカレールーをつけて食べればわかるが、ライスに合わせた粘度のルーは味が濃すぎてパンには合わないのである。
 そこで、西洋人がパンを「スープ(シチュー)」につけて食べる風習があることを知っていた日本人の誰か、あるいは戦後給食行政に指導的役割を果たした占領軍の誰かが、「カレー」のシチュー化を試みたのではないだろうか。
 占領軍文化からカレーがシチュー化したという仮説を立てるには次の発言が気になるところだ。
 ララ委員会にいたネルソン氏が「学校給食十五年史」という本にこんな思い出を寄せている。まず氏は、脱脂粉乳はそのまま飲むよりも「スープ」に混ぜたほうが良いとしており、その理由を、「温かいスープが食事の中心であり、そのスープにミルクを入れると他の料理が引き立てられる」としている。
 この文章で氏がいいたい本質は、なぜスープにミルクを入れるとよいかということであるが、いみじくもこの文からアメリカ人が「スープ」を食事の基本と考えていたことがわかる。彼の国が肉食文化であることを考えると、肉は基本的に体を温める食べ物であるから、アメリカ人が温める食事にこだわるのはよくわかる。だから「カレーシチュー」は日本人の発想ではなく、占領軍(アメリカ人)が考える「あらまほしき食事の姿」とカレーという材料が融合した結果ではなかろうか。
 アメリカ人のスープ至上主義を根拠づけられそうな証言がある。私の母は小学校六年生だった昭和二十四年に「しょうゆ味ベースのスープに脱脂粉乳と鮭が入ったものがでて、まずかった」という体験を持っている。「温かいスープ」にこだわった栄養管理のアメリカ人指導者が、カロリー計算上の栄養を満たすために、味を無視して材料を斟酌せずに鍋にぶちこんだとしか思えない。 どうも「カレーシチュー」の成立にはアメリカの食文化が関与している疑いが濃い。
 また、細かい要因としては戦後直後という特殊事情が考えられる。まずひとつは原料の不足である。お米が配給だった時代、米が足りなくて、各家庭では水を加えて雑炊にしたり、野草やイモを加えて補った。カレー原料も、粘度の高いカレールーにするほどには充分な量が各学校行き届かず、期せずして「配給された量で児童分を賄ったら、とても薄くなってしまった」が、「それでも結構イケルからいい」ということになったのではないか。とにかく昭和二十年代前半は量を得るには「薄くのばす」時代であったのだ。
給食 また、食器類も不足していただろうから、先割れスプーンもなかっただろう。当然、粘度が濃いルーをスプーンでひとさじづつすくって食べるわけにはいかない。濃度を薄くして容器に口をつけて「ズズズ」とすする必要があったのではないだろうか。
 真相は当時の栄養士さんを探し出さなければわからないが、アメリカ食文化と、あらゆる原材料不足が、「カレーシチュー」という変則的な、日本独特のメニューを産んだ。そう考えるのが一番自然が気がする。

●「彷書月刊」2001年6月号を改稿


2003年2月28日更新
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第4回「牛乳のフタとポン」の巻
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