串間努
第4回「ルービックキューブ」の巻
たのきんトリオのトシちゃんやマッチのヒット曲が流れる昭和55年、私は高校二年生、「17歳」だった。通学に利用する千葉駅には頭をリーゼントにし、太いズボンを履いて、薄っぺらな学生カバンを持ったツッパリ兄ちゃんたちがうようよしていた。当時の17歳たちは普通の子が突然キレるということはまず無かった。キレるのはそれなりの風貌と服装をしている子だったので、頭の毛をとさかのように逆立てている子のそばを迂回して通れば一応安全だった。
誰がアブなくて、誰が安全なのか一目瞭然。普段おとなしいヤツがいきなり大声を出したり、殴りかかってくるということは、「ない」という暗黙の前提があり、暴力的行為、脅迫的言辞をするには事前にそれなりの警報を発してないといけないのだ。
ボクは一度だけ彼ら不良の逆鱗に触れてしまったことがある。駅のベンチでたむろしていた数人がルービックキューブをやっていたのを何気なく見ていたら、一面を揃えようと格闘していた一人と目が合い、「アンだ、んナロー、コラぁ」(おい、おまえ何ジロジロ見てんだの意)と、上目づかいで凄まれた。私は彼が、ズボンを太くしてカッコつけているのにルービックキューブという玩具で遊んでいるのが面白く、しかもこいつらは絶対に六面全部を揃えることなんてできないだろうなあという偏見で見ていた。だがそんなことは口が裂けてもいえない。
「いえ、なんでもないです」と同級生くらいの相手に敬語を使って答えたら、「ナメンナヨッ」と今度は顔を斜めにしてあごをピクッと上げながらおどされた。私は「誰が汚い顔をなめるかバーカ」と心の中で毒付きながら自分の心のバランスを取り、彼の怒りの沸点があまり上がらなかったことに安堵してその場を離れた。
昭和55年に1980円で発売されたツクダオリジナルのルービックキューブの人気はものすごく、パズルに縁がなさそうなツッパリ兄ちゃんも夢中にさせていたのである。私も友達が学校に持ってきたのを触らせてもらったが、一面揃えてもそれを崩さないと次の面を揃えることができない。コツコツとやることが苦手なので、ガチャガチャと手早く揃えていく友人の手をポカンと見つめているだけだった。
前年にはテレビゲームのインベーダーゲームが大流行し、その攻略法として『ナゴヤ撃ち』という裏技が口コミで伝えられていたが、ルービックキューブに関しては友達からの手軽な攻略法の伝授はなかった。その代わり、お祭りに行くと、ニセモノが露店で売られ、それを買うと攻略法が書かれた紙が渡されていた。本物との鑑別方法は、白色の面の真ん中のマスに印刷されているはずのロゴがないとか、回したときに滑りがあまりよくないとか、いろいろの噂がささやかれていた。
ルービックキューブはもともとハンガリーのエルノー・ルービック教授が、学生たちに「空間における自由な可能性」を理解させるために1974年に教材として開発したものだ。
1978年にツクダオリジナルの佃社長と和久井専務がニューヨークトイショーに行き、会場で米マテル社のブースにあったルービックキューブを見て、日本での販売権を取得して1980年に発売したものである。
玩具の世界では10万個も売れればヒット商品だが、ルービックキューブはピーク時には380万個の売上を記録した。同時にニセモノは800万個は出回っていたという。 同社では六面すべて揃える以前・以後の写真を送れば、『キュービスト』として認定証を郵送している。現在3万人くらいいるという。なにしろ早い人は50秒くらいで揃えることができる。同社のルービックキューブの歴代担当者もみな一分を切る猛者ぞろいだ。
ルービックキューブは3×3を六面揃えるが、発売2年後にはマスの数をふやして、4×4の「ルービックリベンジ」や5×5の「プロフェッサー」も発売。蛇を形どった「スネークキューブ」やキーホルダータイプなど、バリエーションを広げながらコンスタントに売れ続けている。値段は20年前と変わらぬ1980円のままというのもすごい。1980年に1980円。スパイスが効いていますな。
●毎日新聞を改稿
2002年9月11日更新
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