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ベニアズマアカデミア青木

第7回 サツマイモの戦後史
−芋飴・澱粉・観光いも掘り−


 小生が子供の頃、秋のおやつの定番は「蒸かし芋」だった。近所にはサツマイモ畑が広がり、風の強い日には土埃をもうもうと上げていた。だが、今日そこはすっかり住宅地に変わり、子供のおやつもメーカー製の菓子が定番となった。近所を巡る焼き芋屋さんの数も、昨今めっきり減ってしまった。今回の昭和のライフは、そのサツマイモの戦後の歩みを、「芋飴」、「澱粉」、「観光いも掘り」などを中心に眺めてみたい。

サツマイモ、関東へ
 そもそも中南米原産のサツマイモが中国、沖縄、鹿児島を経由して江戸に伝わったのは、8代将軍徳川吉宗の時代。享保の飢饉の際サツマイモが普及していた鹿児島や長崎では一人の死者も出なかったことを知った幕府は、青木昆陽の献策を受けて享保19年(1734)に小石川の養生所と薬草園でサツマイモの試作を行い、翌年、千葉県の幕張と九十九里の村で実地栽培を行った。江戸の生ゴミから作った肥料のおかげで幕張では栽培が成功し、この地方では天明の大飢饉の際に餓死を逃れることができたという。

 その後サツマイモは農民の自家用作物として千葉県の中部・北部一帯に普及し、やがて関東一円に広まった。埼玉県の川越地方では千葉県市原市の村から栽培技術を学び、寛延4年(1751)から栽培が始まった。


甘藷試作地の碑
甘藷試作地の碑(幕張)

江戸の焼き芋ブームと産地間競争勃発
 寛政年間(1789−1800)になると、値段の手頃な蒸し焼きタイプの「焼き芋」屋が江戸の町々で開業し、市民の人気を呼んだ。当時の焼き芋用サツマイモの主要産地は幕張〜千葉地方と川越地方だったが、天保年間(1830−43)には川越産が優位に立ち、「本場もの」と称された。産地間競争に破れた幕張〜千葉地方では、サツマイモを加工して付加価値をつける道を選ぶ。その成果として、この地で「芋飴」(芋から作る水飴)、「澱粉」、「白玉粉」、「機糊」(機械で織る織布用の糊)などが作られるようになった。

第三の勢力出現
 明治の中頃から、川越、千葉市周辺以外に、千葉県の銚子市から旭市にかけての「海上(うなかみ)地方」がサツマイモの産地として注目されるようになる。主に澱粉用だが、当時は苗を千葉方面から購入するなど産地としてはまだまだ未熟なところがあった。だが大正に入り海上町の穴沢松五郎という篤農家によって新たな苗床育成法が考案されると、この地域のサツマイモ栽培は盛んになり、昭和初期には一大産地となった。またサツマイモの増産に伴って、海上地方は澱粉の生産でも躍進していった。


穴沢松五郎の碑
穴沢松五郎の碑

食糧難の時代に
 戦後の食糧難の時代、不足する米を補うためにサツマイモが配給された。来る日も来る日も食卓には芋が並び、そのため今日サツモイモを見ると「サツマイモは一生分食べた」と顔をしかめる高齢者も多い。

表1の「サツマイモの生産と用途」を見ると、昭和20年の生産高は389万6000トン。意外と少ないようにも思えるが、空き地や自宅で作っていた分は統計から除外されているからだろう。サツマイモは昭和25年4月まで統制下にあった。

 当時、東京に近い川越や千葉県西部などの産地ではサツマイモを専ら食用として出荷していたが、東京から離れた海上地方ではサツマイモの澱粉から水飴を作って利益を上げた。その中心となったのは、飯岡町である。そもそも、ある農家が都会からの食糧買い出し人に芋を煮詰めて麦芽を加えて作る「芋飴」を分けてやったところ非常に喜ばれ、大量製造を求められたのがきっかけという。

昭和20年末に少量の水飴を製造する者がいたが、その後需要が急増して業者も年毎に増えた。製法も澱粉に麦芽を加える方法から、銅製の大鍋を用い硫酸を使って澱粉を糖化する方法(この方法で作られた水飴を「釜酸飴」という)へと発展した。

こうして製造された水飴は石油缶(約26kg入り)に詰められ、いわゆる「運び屋」によって東京の菓子屋や仲買人に販売された。運び屋はこれを1、2缶ずつ背負って汽車で運搬し、中には1日2往復する者もあったという。この水飴は「ヤミ物資」であるが、当局の取り締まりが強まる中、製飴業者は昭和24年3月「飯岡食品化学協同組合」を結成し、翌月県から澱粉の割り当てを受けて正規に操業する道を選んだ。

飯岡の水飴の生産は昭和27年にピークを迎え、生産高は5万4610トン、総売上は44億9900万円に達している。しかしこの年4月に砂糖の統制が撤廃されると、水飴需要は徐々に減っていった。30年代に入ると業者の転廃業が相次ぎ、昭和42年、「飯岡水飴工業協同組合」(飯岡食品化学協同組合の後身)は解散した。

昭和30年代のサツマイモ澱粉事情

 表1で昭和30年代のサツマイモの用途を見ていくと、一貫して「食用」が減り続けているのがわかる。30年に全体の38.3%であった食用向けが、39年には15.0%、数量ベースで10年で1/3に落ち込んでしまった。一方、澱粉用は30年に29.4%だったのが、38年には46.9%に達している。

一見順調に見えるサツマイモ澱粉だが、30年代当時不健全な状況に置かれていた。昭和27年4月から砂糖が自由販売されるようになると、先行きに不安を抱いたサツマイモ農家や澱粉業者は政府や国会に陳情して、28年8月「農産物価格安定法」を成立させた。これに基づき澱粉の政府買い上げが行われたが、澱粉の用途は水飴・ブドウ糖向けが95%を占めたため、砂糖が市中に出回るにつれて政府の在庫は積み上がり、昭和34年頃には約22万5000トン(34年の年間澱粉生産量の半分)に達した。

昭和38年8月30日、池田内閣は日米協力の一貫から粗糖輸入自由化の閣議決定を行ったが、これが澱粉業界に大打撃を与えた。小規模な水飴業者は市場から撤退し、大規模な業者はコンスターチを主原料とする(その際国産サツマイモ澱粉も使用することが義務づけられた)安価な水飴を製造するようになったため、サツマイモ澱粉の需要は急速に減っていった。そしてその傾向は今日も変わっていない。

「観光いも掘り」始まる
 今日「いも掘り」は、秋の幼稚園・小学校の定番行事となっているが、その始まりはあまり知られていない。「観光いも掘り」が初めて行われたのは川越で、戦前「亀屋栄泉」という和菓子屋が芋菓子の宣伝を兼ねて西武鉄道と提携して「川越名物芋掘会本部」を設立、芋掘券(1名5株)+芋畑往復自動車券+名物お芋の菓子お土産券(20銭相当)のセット券を50銭で販売したという。(亀屋栄泉2階「芋菓子の歴史館」に展示あり)

その後、観光いも掘りは戦争で途絶え、昭和30年代に復活する。主唱者は同市今福中台地区の農家、坂本長治氏である。当時農村は人手不足で、どこの農家もいもの収穫・出荷に頭を痛めていた。自分でいもを掘って持っていってくれる「観光いも掘り」に目を付けた坂本氏は、昭和30年頃から独力で東京方面のお客を開拓し、38年に「いも掘り観光組合」を創設した。当初幼稚園児が中心であったいも掘りは、41年になると都内の小学校にも広がり、予約250団体中、8割が都内の幼稚園・小学校(文京、台東、千代田、港、大田、品川の各区が主)によって占められたという。

また、川越の成功を見た千葉県西部のいも農家は、墨田・江東方面の小学生を受け入れるようになった。その後川越の観光いも掘り客は43年に8万人、48年に約17万人となった。オイルショックを境に減少に転じたものの、現在も年間10万人ほどがいも掘りに川越を訪れている。

サツマイモの将来
 昭和39年以降サツマイモの生産量は年々減少し、平成11年には年産100万トンと、最盛期の昭和30年の実に1/7まで落ち込んでしまった。

表2の主要産地のシェアを見ると、昭和35年以降鹿児島県が不動の1位を確保し、2位以下は若干変動があるものの茨城、千葉、宮崎の各県が常連として連なっている。上位4位のシェアの合計は平成に入るまで上昇を続けているが、裏を返せばその他の県がサツマイモ栽培から手を引いていることを示している。

良質のサツマイモを得るためには畑をサツマイモ専用にしなければならないが、ホウレンソウや大根、チンゲンサイ等を同じ畑で輪作した方が土地の利用効率は高く、農家の年収も増える。特に東京に隣接する地域ではいもから野菜へと作付けを変る動きが顕著である。平成12年に収穫された埼玉県産のサツマイモの数量は8940トン。これは全国生産の0.8%に過ぎない。天保年間、江戸市中を風靡した「本場もの」の面影は今はもうない。

 人々を飢えから救うために栽培が奨励されたサツマイモは、飽食の時代が到来する中、このまま消えてしまうのであろうか。最近「食物繊維」や「カロチン」を多く含むとしてサツマイモが脚光を浴びたり、見た目も美しい「紫いも」が世間の注目を集めるなど、復活への動きはある。サツマイモが一年で最も美味しい時期は、丁度これから年末にかけて。皆様もこの機会に是非サツマイモをご賞味下さい。


山川紫
紫いもの代表品種・山川紫

[取材協力 海上町中央公民館  飯岡町歴史民俗資料館]

[参考文献 坂井健吉『さつまいも』法政大学出版局 平成11年
山田えいじ『小江戸 川越おいも探訪』
川越サツマイモ商品振興会 平成8年
井上浩『吉田弥右衛門物語』川越いも友の会 平成13年
『千葉県野菜園芸発達史』
「千葉県野菜園芸発達史」編さん会 昭和60年
『飯岡町史』飯岡町史編さん委員会 昭和56年
『海上町史 総集編』海上町史編さん委員会 平成2年
『旭市史 第一巻』旭市史編さん委員会 昭和55年
『川越市勢要覧'98』川越市 平成10年
農林水産省『食料需給表』、『作物統計』
『日本国勢図会』1960〜2002/2003
国勢社/ 矢野恒太記念会
『第48回埼玉県統計年鑑(平成13年)』埼玉県総務部統計課
『朝日新聞』昭和41年10月26日付朝刊16面、
44年8月11日付朝刊11面、49年9月20日付朝刊21面]


2002年10月15日更新


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