第7回 “花の60年代前夜”1959年のヒット曲
私事ですが、昨年から今年にかけて身辺俄かに慌しくなり、なかなか過去を振り返る余裕も執筆する集中力も時間も生まれず、長い間ご無沙汰してしまいました。何人かでももし楽しみにしていた方がいらっしゃったらここに謹んでお詫び申し上げます。これからもマイペースではあると思いますが、思い出せることをつらつらと書いていきますのでよろしくお願いします。 |
いよいよ花の60年代が近づいてきました。洋楽漬けになるのももう少し、しかしまだ我が家にはレコードを聴く装置はありません。ラジオでかかる曲は相変わらず映画の主題歌が主流。そんな中で印象に残っている曲の一つにブラウンズの「谷間に三つの鐘がなる」があります。この年、私は小学4年になるのですが、クラス替えが行われ、その後3年間卒業するまで同じクラスで過ごすことになります。親友のG藤君とはまた同じクラスになり、卒業まで一緒です。人見知りする私は、取りあえず仲の良い友達を一人確保できたのでホッとしました。
そのG藤君は同じ世田谷の深沢町で新築の家に引っ越ししたばかり。広い土地に平家で2棟という二世帯住居。一人っ子でお坊っちゃんの彼は、小さい方の棟に母親と住み、大きい方の棟には父親と祖母と父の妹が住む、というワケアリ的な家の構造でした。引っ越して初めてその小さな方の棟に遊びに行った時、ついていたラジオで流れていたのがブラウンズの「谷間に三つの鐘がなる」でした。他にも当然何曲か聴いたはずですが、憶えているのはこの一曲だけ。その後、中学生になると彼の両親は離婚し、母親が家を出ていくことになるのですが、この時は知る由もない。美しくも寂しい響きのある「谷間に三つの鐘がなる」だけが印象に残っているのは、彼の家庭の物悲しさを何となく肌で感じとっていたのかも知れません。
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「谷間に三つの鐘がなる」 The
Three Bells ザ・ブラウンズ
原曲はシャンソンでエディット・ピアフの歌で世界中に知られていたという。後年サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」を聴いた時、どこか似ている「谷間に三つの鐘がなる」とG藤君を思い出したのでした。 |
キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」、プラターズの「煙が目にしみる」はずいぶん長い間地味な感じでラジオから流れていた気がします。変わり種では、この年来日したスキーのオリンピック三冠王選手、ハンサムなオーストリアのトニー・ザイラーがたどたどしく歌う「黒い稲妻」と「白銀は招くよ」がヒットしました。私は歌もスキーも全く興味ありませんでしたが、彼の来日を期に日本にスキー・ブームが始まったということです。そしてもう1曲、これもアメリカのヒット曲ではありませんが、カテリーナ・ヴァレンテの「情熱の花」もヒットしました。彼女はその後、日本語でも歌い、来日もします。日本語以外にも七ヶ国語ぐらいで吹き込んでいて“歌う通訳”と呼ばれました。日本は節操もなくなんでも受け入れてしまうのですが、この曲はこの年デビューしてカヴァー・ポップスの中心歌手となるザ・ピーナッツのヴァージョンが印象深い。ナット・キング・コールの「キサス・キサス・キサス」などもザ・ピーナッツのイメージが強い。これはやはりこの年6月に始まったテレビ音楽番組「ザ・ヒット・パレード」(フジ)で歌うピーナッツが刷り込まれているからかも知れません。
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「白銀は招くよ!/黒い稲妻」 和田弘とマヒナ・スターズ/スリー・グレイセス
トニー・ザイラーの写真を使用したカヴァー盤ですが、多分こちらの方が本家より歌は上手いはず。 |
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『カテリーナ・ヴァレンテのすべて』 The
Best of Caterina Valente カテリーナ・ヴァレンテ
踊り子をしていた母がイタリア人、父がスペイン系で、リカルド・サントス(ウェルナー・ミューラー)と共にロンドン(英国デッカ)の専属アーティストとなってから人気が出たという。このアルバムは1962年頃のおそらく来日前後に我が家の長男が買ったもの。MONOで1500円。 |
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「情熱の花」 ザ・ピーナッツ
59年4月に「プティット・フルール(小さな花)」のカヴァーで「可愛い花」というタイトルでデビュー。「情熱の花」は第2弾になるのですかね。 |
テレビと言えば、この年は収穫が多い。前年に放映された「パパは何でも知っている」(日テレ)に続くアメリカン・ホーム・ドラマ「うちのママは世界一」(フジ)がスタート。この2作は毎週家族で欠かさず見ていました。あまりにも日本と家庭環境やら何やらが違い過ぎていて、ただただ先進国の家庭生活にうっとりするばかりでした。日本の例えば「お笑い三人組」(NHK)なんかには“パパ”も“ママ”も出てきません。そう言えば、この頃からクラスに一人か二人“パパ”だの“ママ”だの言う奴が出てきました。富田君、全く似合ってなくて気持ち悪かったぞ。
年が押し迫ってきてからは、「ローハイド」が始まり、しばらくしてスティーヴ・マックイーンの「拳銃無宿」も始まり、土曜日は特例で夕食時からテレビを見だして「拳銃無宿」が終わるまでずっと居間で家族と過ごすことになります。特にフランキー・レインの歌う主題歌で始まる「ローハイド」は長い間一番好きな番組でした。我々日本の家族も、エリック・フレミング扮する主役のギル・フェイバー隊長を「フェーバーさん」と親しげに呼び、クリント・イーストウッド扮するあまり頼りにならない青年ロディに対しては「ロディ」と呼びつけていました。翌年ようやく電蓄が我が家に備わった時に最初に買ったのが45回転シングル盤の「ローハイド」だったことからもこのテレビ番組への思い入れはお分かりでしょう。「ローレン ローレン ローレン」と聞こえるのは「Rollin'
rollin' rollin'」と歌っていたなんて小学生には分かりませんし、歌の言葉全体何やら記号化された音のようにしか聞えないのですが、牛追いのカウボーイの姿と相まってすごくカッコよく聞えるのですね。コンポーザーのディミトリ・ティオムキンなんていう名前もこの頃憶えました。これはもちろん日本だけでのヒット曲でしたが、ついでに聴いていたB面のダラダラしたなかにもドラマを感じる曲、C&W歌手のマーティ・ロビンスの「エル・パソ」が実はアメリカで大ヒットした曲だったのですね(60年1月1位)。
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「OK牧場の決闘」 Gunfight
At The O.K.Corral フランキー・レイン
「ローハイド」と同じコンビ、ディミトリ・ティオムキン作曲フランキー・レイン歌で、もちろんこちらの方が早く57年発売でしたが、我が家では「ローハイド」の後に買いました。B面も同じくマーティ・ロビンスで、こちらは軽快なミディアム・テンポの「ホワイト・スポーツ・コート」(全米2位)。聴いていくうちにA面よりこちらの方が断然好きになっていきました。 |
59年の年末には音楽番組「ペリー・コモ・ショー」(日テレ)も始まり、私の頭の中は“超”アメリカナイズされていきます。あまり若手のポップ・シンガーはゲストに出てこなかったと思うのですが、たまにポール・アンカやフランキー・アヴァロン、コニー・フランシスなどが出ると歓喜しました。若手が出なくても、日本の歌番組と比べると品があるというか大人の雰囲気に、子供ながらに「センスいいなあ」と思って見ていた気がします。何度かゲスト出演したサミー・デイヴィス・ジュニアの芸達者ぶりにはホントに舌を巻きました。タップ・ダンスも上手かったですね。
若手ポップ・シンガーでは、いよいよニール・セダカが「恋の日記」で登場します。コニー・フランシスが前年ヒットさせたポップ・ナンバー「間抜けなキューピット」の作者としてのヒットが先でしたが、自分の歌のデビューがバラードというのも作家としての自信の表れか、「恋の日記」は名曲でした。日本では翌60年「恋の片道切符」で大ブレイクします。この曲、イントロと歌の出だしでヒット間違いなしのような曲に思えますが、本国では「おゝ!キャロル」のB面でヒットしませんでした。62年には、彼の真骨頂「悲しき慕情」でとうとう全米1位になります。日本ではポール・アンカの次のヤング・アイドルになり、二声でハモッたり、コーラスも自分でやったり、才能をいかんなく発揮します。ちなみに我が家で最初に買ったのは61年「カレンダー・ガール」でした。
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「恋の日記」 The
Diary ニール・セダカ
デビュー・シングルなのに可哀想なジャケットですね。 |
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「恋の片道切符」 One
Way Ticket ニール・セダカ
ほとんどが自作なのに「恋の片道切符」は彼の作ではなかったのですね。アメリカでのヒット曲、B面の「おゝ!キャロル」は当時のガールフレンド、キャロル・キングのことを歌ったことでお馴染み。天才作家同士ではうまくいかなかったか。キャロル・キングは作家として成功した後に70年代にシンガー・ソングライターとしても大活躍しますが、ニール・セダカも75年に「雨に微笑を」「バッド・ブラッド」と、キャプテン&テニールが歌った名曲「愛ある限り」をいずれも全米1位に送り込み、新時代にも対応できることを証明します。 |
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「neil SEDAKA」 ニール・セダカ
特別仕立ての10インチ。A1に、<日本の皆様へ>というメッセージが、入っているそうです。 |
※印 画像提供…諸君征三郎さん
2005年9月22日更新
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