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「プラモ線の旅」タイトル

今柊二

「銀河鉄道999と鉄道プラモデル」


 人間は住んでいるところの文化に強く影響される。私がプラモデルのなかで、艦船モデルに強くひかれるのも、生まれた場所が今治という四国の港町だったこともあるのだろう。とりあえず今治は「四国の大阪」と昔は言われていたところで、港には漁船のほかにもフェリーや貨物船などの大きい船もよく入ってきた。私の記憶のなかで最も古いもののひとつに港での体験がある。母に港に連れて行かれたときのことだが、巨大なフェリーが港に入ってきたのだ。瀬戸内独特の柔らかい青い海と空のもと、すべるように入ってきた白い巨大な物体は、強烈な色彩体験として私のなかに残っているのだった。また、私の家は港からは徒歩20分くらいと離れているのだが、夜眠るときには霧笛の「ボーっ」という音が聞こえてくることも茶飯事であった。

 反面、鉄道についてはそれほど執着がなかった。実は家からは港よりは駅のほうがよほど近く、歩いて数分だったにもかかわらずである。当時の四国の鉄道事情というのは非常に貧困な状態で、単線の線路を電化されていない、赤と肌色のツートンカラーの列車がさみしげに時折思い出したように走っていくだけだったからである。実際列車に乗る機会もあまりなかった。今治からちょうど40キロほど離れたところに松山と新居浜という都市があり、そこにいくときですら、多くは自家用車で出かけていったからである。しかしながら、鉄道にまったく興味がなかったかというと、そういうわけでもなく、当時駅にあった、半休のドームのシャワー型の紙コップのオレンジジュース自動販売機(確か30円)も大好きだったし(親は不衛生だといってあまり買ってくれなかったが。あの機械、復活しないかな)、生まれてはじめて文庫本やお菓子のペッツを買ってもらったのも、キオスクだった(新潮文庫の坪田譲治「日本むかし話集3」だった)。ただ、四国の鉄道というのは、しつこいようだが、単線だし、車両の種類も少なかったので興味がわかなかったのだ。実際四国時代の友達で、鉄道マニアというのも、私の周りにもほとんどいなかった。上京した後、世の中にこんなに鉄道マニアがいるのかと驚いた次第だった。そしてそんな「鉄ちゃん」たちに話を聞くと、大体彼らの家の近くに巨大なターミナル駅があったり、操車場があったりする。昼間働いている会社の先輩で、写真と模型と双方たしなむ実に立派に「鉄道」(これは『てつみち』と読んでください)を邁進している方がいるが、彼もまた川崎駅界隈という、実に楽しい鉄道ポイントの出身だった。そりゃ、あんなところに住んでいると鉄道エリートになりますよ。東海道線、京浜東北線、南武線、そして私鉄の京浜急行などというように、実によりどりみどりだからだ。さらに目をこらしていると、たまにレアものの長距離列車だって走るし。

 ああ、あと大事なのは値段だ。当時から四国の国鉄は運賃が安くなくて、それであまり乗らずにさらに愛着がなくなったというのもある。そう言えば、私が上京したのは1986年だったが、渋谷〜横浜間の東横線の値段が160円だったのには驚いた(当時)。「隣の県まで160円でいけるんかい!」とついつい、横浜駅で方言で叫んでしまったのだった。

『相模鉄道』
横浜の最もタダシイ私鉄『相模鉄道』

また当時は大学の関係で、相模鉄道という神奈川でもっともしみったれた私鉄沿線に住んでいたが、学割で「天王町〜和田町」の一月の定期代が700円台というのもスゴかったあ。 …あっ、全然「999」に入れなかった。すみません、次回は本論に戻します。 (つづく)


2002年10月25日更新
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