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串間努

第3回「デパート その1」の巻

食券三種


 思えば生まれてからずっと千葉市で過ごしてきたのだった。
 地元の子どもたちは千葉市内の繁華街にお出かけすることを「千葉に行く」と称していた。そして千葉に行くイコール、デパートに行くことだった。そんな言い方ヘンですか?
 「どこいくの?」
 「千葉!」
 「ここだって、千葉じゃん」
 てな戯れ言をかわしたものだ。
 高度成長時代にこども文化が充実したというのが私の持論。デパートが元気だったのもこの頃だ。三越や西武ばかりではなく、当時は地場出身のローカルデパートが健在で、千葉では奈良屋や扇屋というのが、屋上を持った大きなデパートとして君臨していた。きっとみんなの地元にも、今はなくなっちゃった地元資本のデパートが一つ二つあるだろう。
 日曜日に母に連れられてデパートへ行く。母は洋服売り場へ、私はおもちゃ売り場へと別れる。ピンが一本足りなくなっているエポック社のパーフェクトボウリングゲームに興じたりして至福の時を過ごしていると、買い物を終えた母が呼びにくる。息を詰めながらトミーのウォーターゲームの輪投げをやっていて、あと一本ですべての輪がアシカに引っ掛るというところで、容赦なく連れ去られてしまう時もあった。無念だった。

デパート大食堂

 拉致された先は七階大食堂。最近はデパートに『大食堂』というものがめっきり少なくなり、専門店の食堂街となっているが、和洋中そろったサンプルショーケースは子どもにはすごい魅力で、目移りしてなかなかメニューを決められなかった。
 「カツトマトライス」というメニューを知っている人はいるだろうか。「カツライス」ではない。これは、私が4歳ぐらい(昭和42年)に、千葉にあった十字屋デパートの食堂でよく食べたものである。
 一つの皿にトンカツと線キャベツがケチャップライスとともに乗っている。そう、『トマト』の意味は生トマトではなくて、トマトケチャップで炒めたごはんなのだ。この頃は「チキンライス」や「オムライス」というメニューが健在だったように、ケチャップで炒めたごはんが『洋食』を感じさせた。『氷いちご』が『いちごフラッペ』に進化したように、これも『ピラフ』にとって代わられたが。
 洋食といえば、ハンバーグは昔も今も子どもたちの人気メニューの一つだが、その頃のハンバーグライスにはなぜか目玉焼きがのっていた。今でも、地方の喫茶店などでハンバーグの目玉焼き乗せを見ることがあると懐かしい気持ちにさせられる。おそらく卵をつけたのは『デラックス』になるからだったのだ。屋台のお好み焼きに「玉子入り」が出たのも昭和四十年代からだと思う。
 デパートへ行くたび私は「カツトマトライス」か「ハンバーグライス」しか注文しなかった。ある日、デパートに連れていって貰うと、なぜかこの日に限って大食堂へ母は行かない。屋上へ行こうという。私は「カツトマトライスが食べたい」と願ったが、強硬に母は私の手を引き、ベンチに腰掛けて手作りの「コロッケパン」を食べさせようとした。このコロッケパン、近所の肉屋の手作りモノではなく、スーパーで買ってきたカレーコロッケをコッペパンに挟んだものだった。しかし、私はカレーが入ったコロッケなんて食べたことがなかったし、カツトマトライスへの執念が激しく燃えていたので、一口食べて「食べない」とそっぽを向いてしまった。いつも優しい母は怒りながら自分一人で食べていた。その横で私は口惜しくて涙を流していた。
 きっとこの日はお金が無かったに違いない。貧乏だった私のウチは、デパートに行く時だけがゼイタクできる唯一の日であった。子どもにカツトマトライスさえ食べさせられない家計の余裕のなさに、母はイライラしていたのだろう。食券幕の内
 カツトマトライス時代を卒業すると、今度は奈良屋デパートで『にぎり寿司』を食べるのがお気に入りとなった。奈良屋食堂は食券制だった。今のファミリーレストランのように、座席に案内されてから「さあてどれにしようかな」とメニューを開くのではない。食堂の外に陳列されたサンプルをみてメニューを決定し、レジで食券を買うのだ。これを持って座席につくとウエイトレスさんが銀のお盆とフキンを片手に持ってきて、食券を半分に千切って厨房へオーダーを通す。食事を持ってきた時に残りの半券を持ちかえるというシステムだ。食券御弁当
 各テーブルには、ピーナッツの自動販売機が乗っていた。おとうさんたちのビールのつまみ用である。小型のミキサーのような形をした機械に20円入れると、数粒のピーナッツがパラパラと出てくる。この自販機を作っていたメーカーは、デパートの屋上や踊り場に設置されていた『自動わた菓子機』を開発したメーカーと同じであると最近耳にして驚いた。
 ソフトクリームは銀色の針金で作られたスタンドにはめられて運ばれて来た。厨房から客席まで運ぶのに、ウエイトレスさんが直に手で握ってくるのは見た目が悪いと思ったのだろうか。
食券チャーシュー焼麺 私が通っていた小学校の前に故紙回収業者の倉庫があり、そこに入り込んで遊んでいたことがある。ある日、膨大な故紙の山に見慣れたモノがチラリと見える。それは奈良屋食堂の食券だった。「これさえあればタダで食べられる」と勇躍した私はせっせと拾って持って帰った。だが、家の人は「そんなの使えないよ」という。なぜなら……、もう奈良屋デパートは無く、改装して「ニューナラヤ」になっていたからだ。だから古い食券を捨てたというわけだ。

食券ポークソテー 物持ちが良い私は、当時拾ってきたこの食券をまだ持っている(画像参照)。当時のメニューがうかがえて面白いので2、3挙げてみよう。『チャーシュー焼麺』というのはチャーシュー麺のことだろうが、もしかしたらチャーシューがのったヤキソバかもしれない。『幕の内』というのと『御弁当』と二つあるのはどういう違いか気になるところ。『ポークソテー』というのも昭和四十年代ならではのネーミングである。一番解せないのが『紅白』というもの。マグロとイカだけの寿司を『源平』と称するところがあることから、これのことかと連想してみたい。食券紅白
 しかし、小学校一年生のころから、こんなモノに興味があり、いままで持っているというのは……。みなさん、ドー思います?


●発表先失念したものを改稿


2002年8月13日更新
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