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アカデミア青木
第8回 ぼくたちの「交通戦争」 |
戦後、日本は飛躍的な経済成長を遂げたが、その影では交通事故が激増した。特に子供の犠牲者は年を追う毎に増えてゆき、高度成長期には重大な社会問題となった。今回の昭和のライフでは、当時の子供達がどのように「交通戦争」と戦っていたのかを振り返る。
・昭和20年代後半 「交通弱者」として
表1は昭和24年以降の交通事故死亡者数をまとめたものであるが、これを見ると20年代後半の死亡者の3割超は15才以下の子供によって占められていたことがわかる。そのピークは26年で、38.2%に達している。しかし、28年にテレビの本放送が始まって外遊びの時間が減り始めると、比率は目立って低下を始める。だが、表2にあるように自動車の数は増加の一途をたどるため、死亡者数そのものは年々増えていった。年齢別の数字は割愛しているが、当時の子供の犠牲者のうち5才以下の幼児が占める割合は6割と突出していた。幼児に車の危険性を教え込むのは難しく、親の目の及ばぬところで輪禍に逢うケースが多かった。この傾向はその後も続き、高度成長期においても幼児が犠牲者の過半を占めていた。
・昭和30年代 押し寄せる車とのたたかい
「車社会」の到来とともに交通事故も年々増加し、ついには寺社で「自動車の祈祷」が行われるようになる。当初、「無生物」である車にお経を上げることに懐疑的な仏教関係者もいたが、大阪・寝屋川市の成田山大阪別院での成功をきっかけに、関東でも成田山新勝寺や川崎大師などで自動車祈祷が始まった。35年の子供の死亡事故原因は、1位「車の直前直後横断」、2位「とび出し」、3位「幼児の独り歩き」、4位「路上遊戯」となっており、子供の事故を避けるためにドライバーは神仏を頼るしかなかったのだろう。
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交通安全祈祷殿(成田山新勝寺) |
昭和34年5月に”東京オリンピックの昭和39年開催”が決まると、東京都内では大規模な建設工事が始まり、スピードを上げたトラックが道路を行き交うようになった。東京都は子供達を輪禍から守るため、「学童擁護員制度」(通称「緑のおばさん」)を同年11月に発足させた。1174人がシンボルの緑の上着を着て、23区内の小学校近くの交差点で黄色い手旗を振った。日当は315円で、本来は母子家庭の失業対策事業だった。発足に当たって警視庁は「経験も知識もないおばさんの交通整理はかえって危険だ」と横やりを入れたが、翌年には交通法規を無視した車を告発する権限を与えるなど、次第にその役割に期待するようになった。同制度は38年に都から区へと移管され、それに伴い緑のおばさんは各区の非常勤職員となる。その後、おばさんは40年に正規職員となり、彼女達の待遇は更に改善された。
「交通戦争」という言葉が使われ出したのは30年代後半のことで、37年2月には『交通戦争のエピソード』というドキュメント番組がテレビで放映されている。年間の交通事故死亡者数は1万人を軽く超え、「戦争」に匹敵する規模で人命が失われる時代になった。いかにして車から人を守るか?その回答の1つが「横断歩道橋」である。歩道橋が都内に出現したのは昭和38年のことで、五反田の国道1号線、品川駅前の国道15号線、世田谷区明大前の国道20号線の3ヶ所に設置された。同年11月、建設省は学童の安全を図るため、道路建設に当たっては歩道橋や地下通路を設けるよう都道府県を指導することにし、その設置基準を決定した。これ以後、歩道橋は全国に広がることになる。
小中学校で「通学路」の指定が始まるのもこの頃で、都内では38年2月から始まり、1年で実施率は80%に達した。これも歩道橋同様、「子供と車を分離する試み」と見ていいだろう。これを更に押し進めて通学時に交通規制を行う「スクールゾーン」の設置が決まるのは、46年12月のことだった。
・40年代 高度成長の中で
関係者の努力によって増加には歯止めがかかったものの、子供の交通事故死亡者数は昭和40年代を通じてなお高い水準を保った。学童に対する交通安全教育は充実していったが、逆に横断歩道の黄色い小旗を過信して輪禍に遭うという悲劇も生んでいる。「黄色い」といえば、35年以降40年代にかけて様々な黄色い交通安全グッズが登場した。黄色い羽根、黄色い傘、黄色いハンカチ、黄色い腕章、ランドセルのカバーの色も黄色であった。高度成長期、子供達は黄色に囲まれて通学するようになった。
この時期、車の増加により「大気汚染」が深刻化したが、緑のおばさんもその影響を受けた。42年の都内での調査によると、交通量の多い交差点に立つ10人を選んで精密検査を行ったところ、自覚症状として頭痛を訴える者8人、目やノドの粘膜の刺激を訴えるもの8人、めまい6人、せき、吐き気各5人(複数回答)という結果を得た。頭痛や粘膜の刺激症状は、自動車の排気に含まれる一酸化炭素と刺激性ガスによるもので、その後各区はマスクの着用、酸素吸入器の設置などの対策を取るようになった。
・50年代 ぼくたちの「交通戦争」終結へ
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都内初のエスカレーター付歩道橋 |
オイルショックによる「列島改造ブーム」の終焉を受けて、経済は高度成長から安定成長へとスピードダウン、交通事情も好転した。更に「テレビゲーム」が登場して子供が屋内で遊ぶようになったため、子供の死亡者数は10年で半減した。また、幼児の交通事故死も、「とび出し」や「独り歩き」が減って、激減している。少子化の影響で親の目が行き届くようになったからであろう。
子供の「交通戦争」に終結の光が差し込一方で、50年代の末になると緑のおばさんに寒風が吹くようになった。地方の行政改革でリストラの対象とされたのだ。「毎日の実働時間が3時間程度で非効率的」とか「パートの方が安上がり」という声に押されて、緑のおばさんを全廃する動きが各地で起こった。60年4月、台東区は「子供が何キロも歩いて来るのに学校の近く2ヶ所で誘導しても意味がない」として制度そのものを廃止、61年4月には、荒川区が緑のおばさんを高齢者や主婦のパートに委託している。
子供を守るために設置された歩道橋にも変化の波が押し寄せた。40年代後半、上り下りのきつい歩道橋を避けて車道を横断した老人が車にはねられる事故が続発したため、エスカレーター付歩道橋が考案されて51年4月に錦糸町駅前に第1号が設置された。また、車イスの人でも利用できるようにと、平成5年にエレベーター付歩道橋の第1号が川崎市内に完成した。今日、交通事故対策の中心は「子供」から「老人」や「体の不自由な人々」へと移り、子供を輪禍から守ろうと社会が奮闘した日々は遠い過去の出来事になろうとしている。
[参考文献 |
警察庁『交通事故統計年報』 |
警視庁『警視庁の統計』 |
国土交通省『自動車輸送統計調査』 |
村上重良『成田不動の歴史』東通社出版部 昭和43年 |
『松田大僧正を偲ぶ』成田山新勝寺 昭和62年] |
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2002年12月3日更新
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