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第8回 1960年、
とうとう我が家に電蓄が
やって来た |
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前回、オーストリアの“歌うスキー・プレイヤー”トニー・ザイラーの来日に触れたが、59年には他にも「フジヤマ・ママ」のワンダ・ジャクソン、「ビー・バップ・ア・ルーラ」のジーン・ヴィンセントが来日していた。ワンダ・ジャクソンはTVにも出演したらしいし、ジーン・ヴィンセントは渦中にあるロカビリー・ブームの御本尊が来たことでおそらくラジオなどでも話題になったと思うが、お茶の間を賑わすほどではなく、残念なことに私も当時はまったく知らなかった。
来日した外国のアーティストでお茶の間的に好評を得たのはメキシコのアコースティック・トリオのトリオ・ロス・パンチョスだろう。「ある恋の物語」「ベサメ・ムーチョ」「キエン・セラ」など哀愁感の漂うヴォーカルとコーラス、そしてレキント・ギターの調べが日本人の情感に合うのか非常に受けて、この後毎年のように来日する。テレビにもよく出たが、必ずやる見せ場?があった。「ラ・マラゲーニア」という歌の途中、「マラゲーーーーーーーーーーー」と「ゲー」のところでオクターブ上げファルセットでずっと「エーーーーーーーーーーー」と息継ぎしないでどこまでも伸ばすのだ。どこまで息が持つのかハラハラさせ、拍手喝采を待ってギリギリのところで次のフレーズに行く。それが彼らの“売り”の一つで、来日する度にやっていた記憶がある。
というように外国人タレントの来日といってもアメリカからだけでなく各国入り乱れていたわけだが、当時の子供のあいだでは外国人といえばみんな基本的にアメリカ人のことを指した。さすがに東洋系外国人はアメリカ人とは言わなかったものの、トニー・ザイラーにしてもトリオ・ロス・パンチョスまでもアメリカ人だった気がする。アメリカ人はすべてに優れていて、金持ちで、我々の知らないことをたくさん知っていた。だから逆に、日本に誇れるものがあれば興奮した。この59年は、“世界の中の日本人”を意識するような出来事がいくつかあった。よく憶えているのは、皇太子と正田美智子の結婚、ミス・ユニバースに日本代表の児島明子が選ばれたこと、水泳で自由形の山中毅と背泳の田中聡子が世界新を出したこと。すべてテレビで知った。皇太子の結婚を目当てにテレビは一気に台数が増え、結婚パレードは一日中テレビで流れた。
テレビの普及とともに小学生のなかでも歌謡曲を話題にするクラスメイトはいたが、洋楽はラジオだけでしか知り得ない一部のマニアのもので、友人たちとポップスの話をしたことはまったくなかった。
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「黄色いさくらんぼ」 スリー・キャッツ
当時ものすごく売れていた気がするが、小学生としては「わーかいむすめが ウッフン お色気ありそで ウッフン」にはコメントのしようがなかった。スリー・キャッツもこの曲以外には記憶がない。 |
当時、ペギー葉山の「南国土佐をあとにして」とか、高倉健と結婚したばかりの江利チエミの「さのさ」のような純和風な歌謡曲(変な言い方)が大ヒットしていた。歌謡曲のなかでも好きなのはもちろんあるが、ジャズ歌手出身だからペギーってつけてるはずなのに「南国土佐」はないだろうと思ったし、「テネシー・ワルツ」を始め洋楽中心に歌っていたかの江利チエミも日本髪で「さのさ」かよ、って、ポリシーのなさが好きじゃなかった。でも、その頃からそれまでの例えば神戸一郎とか三橋美智也とかフランク永井とかコロンビア・ローズらの歌う、ひっくるめて純歌謡曲というようなものから、ちょっと毛色の変わったポップで教育上よろしくなさげな「黄色いさくらんぼ」(スリー・キャッツ)や、第1回レコード大賞を受賞したロッカ・バラード風な「黒い花びら」(水原弘)や、水原同様やはりロカビリー出身の守屋浩の「僕は泣いちっち」のようなゴロの良い言葉をちりばめた洋モノ?的な発想のヒット歌謡が次々と出てきた。平尾昌章の「みよちゃん」とかは小学生でも歌っていたかも。日本人の歌うものは、純歌謡曲と新歌謡曲、そして外国曲の日本語カバーという、三つ巴時代になる。
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「私は10歳、小学5年生」
よほど嬉しかったのか、長兄の部屋に置かれた電蓄をバックに兄弟妹一人ずつ記念写真を撮った。私は10歳、小学4年生。レコード・ケースの中はほぼ空だから、ほんとに来たての時に撮影したのだろう。 |
そしていよいよ1960年、昭和35年。電蓄が我が家にもやってきた。そのうちプレイヤーと言うようになるが、最初はあくまでも電蓄と言っていた。父親が同時にサンプルのようなSPレコードを何枚か買ってきてくれたのだが、子供向けのいわゆる童謡・唱歌のアンソロジーのようなもので、教育上好ましいと思うものを選んできたに違いなかった。「森のキツツキ」「朝はどこから」「緑の牧場」・・・そんな曲を小鳩くるみだったか“○○少年合唱団”みたいな子供たちだったかが歌っているセットものだった。特に聴きたいわけではないのに、レコードはこれしかないので、何度も聴いた。電蓄で聴く行為そのこと自体が嬉しいのだ。電蓄をバックに記念撮影までした。そして、ついに自分でレコードを買いに行くことになる。
当時住んでいた住宅街の深沢町や商店街のある桜新町にはレコード屋がなかったので、桜新町から渋谷行きの玉電(現在の田園都市線)に乗って三軒茶屋まで行って買う。当時、三軒茶屋には二軒、「スミ商会」と「太子堂」というレコード店があった。もうないだろうけど。そこで、ようやく待望の「ローハイド」を買ったのだ。その後は、クリスマス・プレゼントや誕生日プレゼントなどメモリアル・デイを利用して兄弟相談し合って親に買ってもらうのが関の山なのだが、自分たちでも小遣いをなるべく使わないように駄菓子屋などには行かずに貯めては三軒茶屋に行くのだ。そして「マイ・ホーム・タウン」「ダイアナ」などポール・アンカものから始まって、ポップス系ではジミー・ジョーンズの「グッド・タイミング」とミミー・ロマンの「恋の條件反射」などを買った。あとは「エデンの東」「ジャイアンツ」「OK牧場の決闘」「太陽がいっぱい」「黒いオルフェ」「禁じられた遊び」「ベンハー序曲」・・・と最初は映画音楽も多かった。
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「マイ・ホーム・タウン」 My
Home Town ポール・アンカ
60年に全米8位のヒット曲。私のポール・アンカ“デビュー”曲でもありポップスへ目を向かせた最初の曲でもある。このジャケット、よく見ると、「クレイジー・ラヴ」のジャケットと同じ写真がトリミングを変えて使われているだけだ。当時の洋楽シングルにありがちだった。 |
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「グッド・タイミング」 Good
Timin' ジミー・ジョーンズ
アメリカでもヒット(全米3位)したが、その前に出した「ハンディ・マン」はそれを上回る大ヒット(同2位)だった。「ハンディ・マン」もファルセットを有効利用していた。 |
「グッド・タイミング」のようなタイプの曲は和モノでは聴いたことがなかった。ノリが良くてゴロが良くてコーラスの合いの手が決まっていて、「タカタカタカタカ」というファルセットのヴォーカルがとても異質。坂本九の「この世で一番かんじんなのはスッテキなタイミング」(漣健児訳)と歌うカバーも印象に残っているが、オリジナルの黒人のキレにはかなわなかった。坂本九といえば、その前に出したシングル「悲しき60才」(青島幸男訳)も変わったカバーだった。「ヤー ムスターファ」という中近東の曲を選んで新人に歌わせる、というのは思いきっているというか、いいかげんというか、すごいプロデュース能力だ。でも私らは、オリジナル派。テレビは見ていたがカバーもののレコードには見向きもしなかった。
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「ステキなタイミング」 ダニー飯田とパラダイス・キング
一番低いところの音程がボソボソと声になっていないのは、ファルセットの「タカタカタカタカ」にキーを合わせたためだろう。A面は、ブライアン・ハイランドの大ヒット「ビキニスタイルのお嬢さん」の日本語カバー(岩谷時子訳)。 |
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「悲しき60才」 ダニー飯田とパラダイス・キング
B面はポール・アンカの「マイ・ホーム・タウン」のカバー(みナみカズみ訳)。坂本九はソロ名義では前年59年に「題名のない唄だけど」でシングル・デビューしている。 |
ミミー・ロマンの「恋の條件反射」は日本で少しヒットしたので当時を知る人にはおそらくよく知られている曲だと思うが、日本で一発屋にして本国アメリカでは何もヒットしなかったから、音楽史には痕跡をまったく残していない。当時は当然アメリカで大ヒットしている曲と思っていた。コニー・スティーヴンスやマーシー・ブレーンとは言わなくとも、60年代アメリカン・ポップス誕生の先陣と言えるコニー・フランシスの「カラーに口紅」や「間抜けなキューピット」などあっていいはずの女性ヴォーカルのシングル盤がほとんど家にはないのに、何でミミー・ロマンがあるの?と言いたいところだが、「恋の條件反射」も確かにポップで良い曲だ。ジャケットはどこかに行っちゃったけど盤だけはまだ手元にある。
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「恋の條件反射」 Up
To My Heart In Love ミミー・ロマン
本国ではさっぱりなのに日本だけでヒットした曲というのは他にもたくさんあるが、「恋の條件反射」と同時期にヒットしていた曲では、ジャミー・クーの「燃ゆる想い(I'll
Go Loving You)」という切ないバラードも懐かしい。 |
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「カラーに口紅」 Lipstick
On Your Collar コニー・フランシス
荒井由実が「ルージュの伝言」を出した時、「ヒット・ポップスの原点“カラーに口紅”を狙ったな」と感じた人も多いのでは。B面「フランキー」は「間抜けなキューピット(Stupid
Cupid)」と同様ニール・セダカ作で、こちらもアメリカではヒットした。 |
「ヤヤヤーヤ ヤヤヤヤ」と歌われる「悲しき16才」(ケーシー・リンデン)は日米ともにB面だったが、日本ではヒットし、本国ではヒットしなかった。アメリカのマネをしていたにも拘らず意外と日本独自のヒット曲が今後もたくさん出てくる。因に「悲しき16才」は、「ひとりぼっち お部屋で」と歌うザ・ピーナッツのカバーの方がもっとヒットしたかもしれないが、これも私はオリジナルが好きだった。顔を知らなかった分、甘く囁く声に過敏に想像力が働いたという例かも。「悲しき16才」がヒットし、「悲しき60才」が続き、その後ポップスに次々と「悲しき〜」というタイトルがつけられていく。
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「悲しき16才」 Heartaches
At Sweet Sixteen ケーシー・リンデン
「悲しき〜」のタイトルは、ちょっと思い出すだけで、「悲しきあしおと」「悲しきかた想い」「悲しき街角」「悲しき雨音」「悲しき北風」「悲しきクラウン」「悲しき慕情」「悲しき悪魔」「悲しき少年兵」「悲しき笑顔」・・・きりがない。 |
といっても当時はポップスという言い方はまだされていなく、ポピュラー・ミュージックというジャンルも一般的ではなく、洋モノはすべて一括りに“ジャズ”だった。私もクラスの女の子から「へー、O君ってジャズが好きなんだー」と言われたことがある。私はこの手の音楽を“ポピュラー”と呼んでいたので、内心「こういうの“ジャズ”って言わないぜ、バーカ」と思ったけど、面倒なので何も説明しなかった。イントロが流れるだけで身体に電流が走るような感じがした「マイ・ホーム・タウン」など、クラスではまったく話題にならない。レコードをたくさん買い揃えることは当然できないので、家にあるレコードを繰り返し聴く。ポール・アンカは言葉がはっきりしてメロディにリズミカルに乗っているから憶えやすい。もちろん英語は読めないので、耳に入ってくるままの英語もどきとしてカタカナでなぞっていく。中学になって英語を勉強し始めて多少文字と発音が一致してくるわけだが、小学生にとっちゃ「ローハイド」は「ローレン・ローレン・ローレン、ローデーデッシュ・プーベン、キッペンローギーローレン、ローハーイ」ですからね。なんのこっちゃです。
※印 画像提供…諸君征三郎さん
2005年11月8日更新
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