第12回「木造校舎は消え、鉄筋校舎が建っていく」の巻 |
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◆学校が木造から鉄筋コンクリートになった
昭和40年代には鉄筋校舎、プレハブ校舎、木造校舎がひとつの校地内に混在している時期だった。
私が小学校2年生のとき、しばらくの間お弁当を持っていった期間があったが、それは新しい鉄筋校舎を建てるために給食室が使えなくなったせいだった。新しくなった校舎は「新校舎、新校舎」と児童に呼ばれて、用もないのに鉄筋校舎に出たり入ったりしたものだ。給食室そばには銀色に光るリフトも備えつけられ、私たちはエレベーターができたと喜んだが、「絶対に乗ってはいけない」と先生に釘をさされた。そのリフトは結局、給食のおかずや牛乳運びに使われることもなく、私たちはずっと人力で重いおかず缶を運んでいた。視聴覚室も滅多に使うことがなく、お金をかけた設備があるのに卒業まで使わずじまいだったモノや設備というのが学校には結構ある。
2階建で合計6教室しかない木造校舎は特に取り壊されることもなかった。当時はいまよりも児童数が多くて、教室が足りないせいで利用したのかも知れない。
木造校舎に郷愁を覚える人は多いだろう。それらが無くなっていったのは、高度経済成長時代だと思っていたが、調べてみると都市部ではもっと早くから鉄筋校舎に建て替えされていた。
「泣き面にはち」などのことわざにみられるように、不幸は重なるといわれるが、まさに終戦直後の日本はそうだった。戦災にやられた上に凶作に見舞われたり、毎年のように大型台風が上陸して被害を生じさせた。復興期にはできるだけ広い面積を安く、早く建築することが急務とされ、充分な技術的検討がなされないまま、粗悪な設計の工事が行われたこともあった。そのために、建てたばかりの校舎が災害でたやすく倒壊してしまったり、建てた校舎が劣悪で、教育上も好ましくない、という例がたびたびおこり、学校建築の構造上の最低限をおさえ、乏しい割当資材を効率的に使用し、新しい教育の実施にも対応する技術上の指導が要望された。このため防災防火対策上、恒久的に安全な鉄筋コンクリート建築の建物が必要となった。
そういう事情を踏まえ昭和22年に、特許標準局は、日本建築規格「小学校建物(木造) JES1301」を決定した。
鉄筋校舎の元祖は大正9年の神戸市雲中小学校であるが、普及はしていなかった。しかも戦時中は鉄筋コンクリートの建造物は軍需以外は建設することが不可能であったため、鉄筋校舎の建築技術者には不慣れと技術不足があり、鉄筋コンクリート建築にはなかなかふみ切れなかった。戦後の鉄筋校舎のはじめは、補助事業では東京都西戸山小学校(戦災復旧)兵庫県芦屋市の山手小学校(戦災復旧)鹿児島県志布志市の災害復旧小学校が最初であろう。
昭和24年、文部省は鉄筋コンクリート校舎の普及をはかり、技術不足を補える標準設計を策定した。これをモデルに鉄筋校舎は各地に普及していくことになった。昭和25年に市街地建築法が建築基準法にきりかわり、同法で防火地域内の学校はすべて鉄筋コンクリート造でなければ建てられないことになったためだ。昭和28年の西日本水害や畿南水害などでは、鉄筋コンクリート造校舎が、構造上も安全で、いざと言う時に避難や救護にも有効なことが明かに示されたので、これら災害復旧地域にも鉄筋校舎での復旧が多くなって来た。
文部省は昭和29年には「学校建築技術」(日本建築学会刊行)により全国的な講習会を開催し、鉄筋コンクリート造校舎の普及につとめ、また、次第に鉄筋校舎建設の要望も各地でが増加した。昭和29年度には小・中学校校舎の鉄筋コンクリート造は15%であったが38年度には、過半数の学校が不燃・耐火構造となった。
小学校名に「東西南北」や「第〜」というナンバースクールが増えてきた昭和40年代には、高度成長時代のビルブームのあおりで鉄筋校舎の建築が追いつかず、入学予定の小学校ができておらず入学式ができない宙ぶらりん状態になるという珍事も起きた。
校舎が足りない、教室が足りないという嘆きがあったころ、現在のように少子化で小学校の統廃合が起き、「母校がなくなる」事態が来るとは誰も、夢にも思わなかったに違いない。
●書きおろし
2003年12月15日更新
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