子どもの頃、自宅からバスに乗って、千葉市のターミナル駅前にあるデパートの玩具売り場に行くのが楽しみだった。生きがいと言いかえてもいい。そこには、住んでいる地元のおもちゃ屋では売っていない、高額な科学玩具や、プレゼントにもちょっと洒落ている、センスのいいアイデアグッズなどが並べられていた。そのなかの一つに『笑い袋』があった。アメリカンクラッカーという玩具とどっちが先であったかは忘却の彼方だが、あい前後して現れたジョークトイだったと思う。
ある日、友達数人と、デパート玩具売り場に出かけたときのこと。いつものように『笑い袋』を触っていたら、スイッチが壊れてしまったのか、笑い声が、止まらなくなってしまった。「ワッハッハワッハッハ、ウワッハッハ」と繰り返し続ける袋がこわくなって、ボクはそのまま逃げてしまった。今だったら電池を抜くとか頭も働くだろうが、当時六歳のガキだったからそんなことは思いつかない。布の袋はまったくのブラックボックスだったのだ。それにしても笑い声がとまらないというのはコワかったな。
●玩具業界から転身を図った社長
笑い袋を世に送り出したのは、アイコという会社の社長であるAさんである。
社長は昭和九年、愛知県の豊橋の生まれ。半農半漁を営む家の六人兄妹の次男である。豊川中学から豊川高校に進むが一年で中退、蔵前にあった叔父さんの玩具商に勤め、三十四歳の時に独立することになった。
ある日、コストがかかって儲からない玩具に対して「こんなことやってていいのか?」と懐疑的になり「自分にはおもちゃの仕事が合ってないのでは」ということに思い至り「何かほかのことやらなきゃしようがないな」と考えるようになった。そこで社長は、叔父さんに「何かほかのことを」と提案したが、どうして玩具以外のことをやらなくてはならないのか理解してくれない。それなら辞めてしまおうということで、独立し、向島に事務所を構えることになった。社長はその時の状況をこう説明する。
「オモチャというのは、昭和三十年代から輸出がすごく多かったんですよ。作れば売れた時代だから。そういう時代に商売をしていた人に、これから先のこと考えるとほかのものをやってたほうがいいんじゃないかみたいな話をしても、聞かなかったんじゃないかと思うね」
社長が転換を考えた何かほかのものというのは雑貨ものだった。単純な実用品じゃなくて、インテリア雑貨。実際に社長は自分でデザインして、状差しだとか、寒暖計の類などを作った。金属製の状差しはよく売れ、月に三万から四万個ぐらい作っても、全然間に合わなかったほど。テレビドラマの小道具にも使われたという。
状差しがよく売れたことから、業務は多忙になった。人手不足に困った社長は、「誰か、人いないか?」と聞くが、それがオモチャ業界の人たちばかりだから、紹介されてくるのは、オモチャしか知らない人間だった。状差しをヒットさせ、人手不足で雇ったのはオモチャのことしかしらない業界人ばかり。そこに『笑い袋』への転機があった。
●「笑い声を作ってください」
社長が『笑い袋』をつくるにいたったきっかけは、すごく単純であったが、意外な申し出からだった。
アメリカの知り合いが「笑い声を作ってくれ」ともちかけてきたのだ。彼は、最初はそれをミッキーマウスの縫いぐるみに入れて売っていた。ところが、当時は縫いぐるみが笑うなんていうことは、一般的にはナンセンス。同じようなぬいぐるみがあって、片方が十ドルで、笑い声がするのが二十五ドルだと全然売れない。企画が時期尚早だったのか、笑い声が入ってると、高価になるというイメージがなかったのだ。
そこで社長はぬいぐるみ以外のものに機械を入れたらどうかと考えた。たまたま、袋に入れてぶら下げたらどうだろうと思ったが、それだけでは芸がない。試行錯誤しているうちに、昭和四十四年後半からアメリカの知人のほうが袋に入れて売り出したら、大騒ぎになった。そこで、「じゃあ、日本でもそれでやろう」ということになったという。
「『笑い袋』は、一番最初は幾らだったかしっています? 八百八十円です。『ハハハ』だから」
ギャフン。やられました。
●笑い声の録音に手間取る
袋に書いてある英文字といい、豪快な笑い声といい、あの声はやはりアメリカ人の声なのだろうか。いやきっとそうだろう。笑い方が日本人ばなれしている。「アハハハ」「ウヒヒヒ」とハ行の音が明瞭に記憶に残っている。ボクは、愉快なことがあっておかしくておかしくてたまらないと、ああいう笑い声ではなく、お腹がぴくぴくとけいれんし、「ケッケッケ」となってしまう。友人たちを見ていてもわかるのだが、本当におかしい時、日本人は無音に近くなるはずだ。
笑い声の録音は難しいものだったという。当時、洋画の司会なんかで有名な、声優のAさんに頼んでやってもらおうとした。「何をやるんだ?」というAさんに、「ちょっと笑ってほしいんですよ」と依頼し、二時間かけて何種類かの笑い声を録音した。それを使って早速作ってみたが、聞いてておかしくない。笑ってはいるが、表面的なもので、感情が笑ってない。演技をしているせいである。そのためあと二〜三人にやってもらってもやはりだめだった。
そりゃあ二時間もやっていればだんだん混乱し「笑い声ってどんなんだっけ」とわけがわからなくなるだろう。漢字練習でずっと同じ字を書いているとなんだか合っているのか不安になるのと同じである。
「それでどうしようかというときに、たまたまアメリカから『これを使ってくれ』と声を送ってきたものだから、『じゃあ、これでやろう』ということで始まったのです」
ただ、女性の笑い声からは日本人になった。
当時二十歳の劇団の女の子に、何も言わないで、「あなたはいま、おかしくてしようがないんだよ。笑ってくれ」と言って、いきなりマイクの前で笑ってもらった。「今度はアハハで笑ってください」「オホホで笑ってください」「こういう場面を想定して笑ってください」とか、いろいろやったけれど、結局二時間、一生懸命テープを回して使えたのは最初の四十七秒だけだった。
「最初は、本当に何も考えないでやってるから、感情を乗せてたけど、あとは演技をつけられると全然だめなんですよ。だから、結局よかったというのは最初の四十七秒だけ。この中から二十八秒取って、それはいまでも売ってます」
三十年経ったいまでも同じ声というのがすごい。
「よく、『その人はなんという人ですか?』と聞かれるけど、我々はそこまで考えてないですよね。マスコミの取材のことまで考えて物を作ってるわけじゃないですから」
しかしその劇団の女の子がいまごろ大成して、ドラマとか出てたら面白いのだがな。
毎日、家で笑い袋を聞いていた社長の娘は、幼稚園から帰ってくると、一生懸命『アーハッハッハッ、ハッハッハッ』と、一生懸命物真似していたという。
●笑い声再生機のヒミツ
以上で『笑い袋』のソフトの面はよくわかった。ではハード、再生機はどのような仕組みだったのだろう。
袋を押せば『笑い袋』は機能した。袋の中身をみればどんな仕組みだったかはわかったかもしれないが、成田山のお守りの中身を覗き見ないように、なんだか袋の中を引っ張り出すのは抵抗があった。ここで中身を知ることによりがっかりするか、ウヘーと驚くか、今、そのヒミツが明かされる。
笑い声を再生する機械はOという会社が作っていた。社長同士が友達だったのだ。
仕組みは昔のレコードプレーヤーを簡単にしたものだ。モーターがベルトによって、ターンテーブルを回し、その上にのせたレコードに針が乗ってて音を出して、それがスピーカーで増幅される。レコードの最後までいくと、接触しているスイッチが針で押されて離れるから、それで音声が切れる。
「針がレコード盤に押さえられてるでしょう。上にスピーカーが乗っていて、スピーカーをスプリングで押さえているわけです。押さえられてるから、止まってるような感じね。ところが、スタートボタンを押すと、スピーカーがスッと上がるんですよ。そうすると、押さえられていた針圧が全くなくなるわけです。レコード針が外へ押されているから、針がスッとスタート位置に戻るわけです。それでスタート。スタートすると、ずっとそのまま音が出ていって、最後にいくと、くっついてるスイッチを針がスッと押すわけです。それで切れるわけです」
袋の意匠は「ピエロ」であった。ピエロならば万国どこへ行っても通用するし、一番無難だろうと考えたのだ。そしてそれがA社のトレードマークになる。
笑い袋はよく売れたが、円高やICの登場で機械製造のO社は撤退していき、自社生産に切り替えた。
●あそこは養鶏場ですよ?
笑い袋を製造する上で、いまとなっては笑い話になるエピソードがあった。
「検品しようと思ったら周りから『うるせえ』と言われてね。要するに、民家の近いところでやれないんですよ。でも、検品しないことにはしようがないのでね。この先に、農家の昔の茅葺きの家があったんですよ。もう使ってない家で空いてるからね。表は広いし、あそこがいいやということで借りたんですよ。百坪ぐらいあったから自由に車も出入りできるし。楽でよかったんです。入り口のところにお米屋さんがあって、要するに、庭を挟んで向こう側で作業してるわけでしょう。ちょっと距離を置いてるから、全然気がつかなかったわけ。ニワトリを飼ってると思ったらしい」
検品は一個ずつ鳴らすのではない。パートのオバサンが三十〜四十人で一斉にやっているから、笑い声が輻輳し、すごい音になった。それが周りにはニワトリが騒いでる音に聞こえていた。
農家を借りて二年ぐらい経ってから、お米屋さんから「えっ、笑い袋はおたくだったんですか?」と見直された。どうしてそんなことをいうのか不思議に思っていると、「実は私は養鶏場だと思ってたんですよ。それにしては朝八時になるとピタッと鳴きだして、五時になるとピタッと止むので、面白いニワトリだなと思ってたんです」そんなニワトリはいない。取材や荷物を取りに来た人が、お米屋さんに「ここに笑い袋をやってる人はいませんか」と尋ねると「ここは養鶏場ですよ」と、みんな断っていたそうだ。
ところで検品する人も笑ってしまわないのだろうか。もらい笑いって結構、日常ではあるではないか。
「毎日聞いていれば、別に……。要するに、銀行員がお金いじってるのと同じでね、金だと思わなくなっちゃうでしょう」
だからといって、普段笑わなくなると困りますな。
「それはまた次元が違うでしょうからね」
怒り袋だとか、もてもて袋、亭主関白袋など、トーキングマシン内蔵のジョーク玩具はレパートリーを拡げていき、いまもバラエティー雑貨の定番を占めている。
笑い声ひとつで社員を養えるほどに会社を成長させたA社長。喜劇王チャップリンに匹敵するのではないだろうか。
●小説宝石を改稿
2003年6月27日更新
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