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第11回「高額品は月賦で」の巻
日曜研究家串間努


クレジットではなく月賦の時代

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 洋風な生活をする家庭が多くなったといわれる「高度成長時代」。とはいいながら現在に比べれば、豊かな人々の数は少なかった。サラ金も発展していないし、ムトウやセシールの通販カタログも隆盛でなかった昭和30年代・40年代には、ごく一般の市民は月賦で商品が買える月賦百貨店に足を向けていた。
 私が子どものころ、近所のおばさんたちはあちこちで立ち話をしている時代だったので、母親とおでかけするカッコウをして歩いていると「あら、どこにいくの。いい服着ちゃって」などと声をかけられたものだ。私は調子に乗って、「マルコーに行くの!」となんの躊躇もなく答える。マルコーは、千葉市の繁華街にある月賦百貨店であった(のちにダイエー系列となり「デンキランド」に)。実際、毎月そこに月賦代金を払いにいって、そのあと扇屋百貨店の大食堂で目玉焼きを乗せたハンバーグライスか、ポークソテーを食べるのが楽しみだった。おばさんたちが見えないところまでくると、母親から頭をひっぱたかれた。「そんなこといっちゃだめでしょ」と。当たり前のことをしゃべって叱られる意味がまったくわからなかったが、当時のオトナは月賦で買い物をするのは恥で、「現金正価」で買うのが富裕の証であったのだ。この「現金正価」で値引きなしで買うのが王道という考え方は根強く、いまだにディスカウントショップで販売されている商品は粗悪品だと思い込んでいる高齢者は多い。「安物買いの銭失い」ということか。

なぜ月賦百貨店には「丸」がつくのか

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 月賦という販売方法は明治末期からあるようで、「うちは『ラムネ』はやっていないよ」という隠語の使われ方があったという。語源は炭酸飲料であるラムネを飲むとゲップがでるからだ。似たような言葉には『高利貸し』のことを『アイス(氷菓子)』という隠語もある。質屋を『一六銀行』と呼んだり、なかなか明治のビンボーなひとたちは自虐的ユーモアがありますわなぁ。
 
 月賦の百貨店を始めたひとたちには愛媛県人が多い。江戸時代、「伊予商人」と称された彼らは、漆器と陶器を主に扱い、伊予の桜井が天領であったため幕府の御用米の運搬などをする回船業者が生まれ、西日本各地の港に行商に出かけて桜井漆器を販売していた。しかし鉄道が発達するようになると、行商の集団をつくり、先に行ったものが宣伝を行い、集会場などを借りて見本の陶器を並べて注文をとるようになった。後から来たものが商品を配達し、代金を集金して回るという一種の分業制だ。

 漆器は高かったので、代金集金には「月賦」という形がとられた。漆器を購入するのは地元の名士たちだから踏み倒される恐れも少ない。頭金を一割程度入れて、十数ヵ月で残金を返済する。漆器が衰退するとこの制度だけが残り、商品は利幅の大きい呉服、家具や貴金属などの高額商品に変わっていったという。この商法はわがまぼろしチャンネルで「定食ニッポン」を連載中の今柊二氏出生の地である愛媛の、呉服店「丸善」がさきがけである。この店からのれんわけをした「丸武」「丸共」など、「丸」がつく月賦百貨店が全国にひろがっていった。全国の月賦百貨店組合員566名の95パーセントは愛媛出身者であり(昭和55年の調査による)月賦という販売方法はまさに伊予商人が作り出したものなのである。
 
通販広告に月賦販売はキケン?

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 丸井の二代目社長は月賦という名前をクレジットに改称して成功を手中にしたが、それが昭和35年、高度成長の真っ最中であった。昭和30年代は耐久消費財がどんどん月賦によって手軽に庶民の手に入るようになった時代で、昭和31年に発売された「スマートレディー」という自転車は初めてぜいたく品だった自転車を月賦で販売したもので、これによって女性に自転車が普及したといわれる。

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 通信販売の世界でも、月賦という方式であれば、高額な商品でも宣伝販売できるということに気がついた業者がこの時代、参入しのちの通販カタログ業界にかかわることになっていく。
 戦後、空襲によって工場や卸などが被災し、流通網が損なわれ、東京のモノが全国に流通しずらい状況にあったとき、雑誌に販売広告を掲載することで郵便による物販ができることが注目された。昔は東京などの大都市で流行したものが同じスピードで地方に普及するということはあまりなく、だんだんと東京で火がついたものが桜前線のように北上するという感じであった。東京で流行しているものを広告することで全国のひとにしらしめることができ、地方在住者にとっても家にいながら入手できる通販広告の存在は大きいものだった。しかし、ここに「信用」という問題が介在する。代金を先に払うか、後にするか。消費者と通販業者、両者のにらみあいである。良心的な業者はもちろん代価に見合ったものを送るつもりなのだが、後払いでは不心得者による回収不能の債権もできてしまう。ところが消費者からみると通販業者への信頼がいまひとつであり、代金だけとられて物を送ってこないのではないかという猜疑心が起きてくる。あるいは粗悪品が送付されるとか、実物を見ての購買でないから不安材料はいろいろとある。その信用性の担保のためにも、通販業者にとっては、名の知られている雑誌への広告出稿は大切だ。

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 今回紹介した、東洋時計などは高額商品を先渡しし、代金は「分割払い」という方式で販売するという、もっとも消費者を信用した販売方法を行った。昭和6年に創業された荻窪の東洋時計は、戦後すぐに時計の通販を開始した会社である。雑誌の裏表紙に腕時計が何点も掲載された広告を昭和40年代までは出していた。子ども向けの雑誌にも出していたのだから、24回払い、36回払いと月賦の回数を増やして一回の支払いの負担をやわらげれば、子ども(中学生が対象か。よくて小学校高学年)小遣いでも腕時計が買えたのだろう。

 今は雑誌の付録に腕時計がついたり、百円ショップでも腕時計が売っている時代となった。時計はカメラに次いで、ステータスが大暴落した子ども向け通販広告商品といえよう。

「小さな蕾」誌に発表のものを改稿


2004年8月20日更新


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