第9回 3人目の期待のアイドル、本邦未発売で日本 デビューはお預け
1960年の夏はローマ・オリンピックがあった。我々小学5年生の遊びにもその影響が現れた。56年メルボルン大会に続いてローマでも金メダルを取った小野喬選手の鉄棒演技は「鬼に金棒、小野に鉄棒」と言われたほど完璧だった。体育の授業でも鉄棒の自由演技のテストが行われることになり、わがクラスでは鉄棒が一躍ブームになった。どの学校にも、足が地に着かない高い鉄棒が2台はあったと思うが、あれを使うので、逆上がりすらできずにただぶら下がっているだけの子もいる。私は蹴上がりをはじめ、大車輪もどき、前回りや後ろ回りはぐるぐる何回でも回っていられた。さらに鉄棒上での倒立や他の合わせ技を組み合わせるために放課後残ってまで練習した。その成果はテストでしっかり反映され演技が終ると歓声が上がった。テストが終ってからも私の仲間内では卒業まで鉄棒のブームが続いた。日本のあちこちでこういった現象があったんじゃないかと思う。
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小学5年秋の遠足
江ノ島でA星君とお弁当タイム。大嫌いなYG帽を被っているのは、それほど東京にはCD帽がなかったから。江ノ島にちなんでバスガイドが歌う「♪稲村ガ崎、古戦場」(タイトル?)が、妙に歌謡曲っぽすぎてキモわるかったな。 |
小学校のころは、連帯と競争が絡むと何でも共有できる遊びになってしまう。でも、洋楽ポップスを追いかけるような人間は学年とおしても2〜3人いるかいないかで、共有できる人物は相変わらず、2コ上の兄だけだった。着流し姿で角刈り頭の18歳の新人歌手・橋幸夫が「潮来笠」を歌い、それを女の子がキャーキャーと騒いでいるのをテレビで見ても、この若年寄のような姿のどこがいいんだろうと不思議でならない。今の氷川きよしと言えばいいか。確かに歌は上手かったかもしれない。ひょっとすると氷川ファンのオバサマたちは昭和35年当時、橋幸夫にワーキャー言ってた娘たちなのかもしれない。歌謡曲に関していうと、第2回レコード大賞は、松尾和子とマヒナスターズが歌う「誰よりも君を愛す」で、作詞はつい最近88歳で他界した、「おふくろさん」の川内康範、作曲が吉田正という正統的な昭和歌謡コンビだった。一番と三番をマヒナが歌い、二番を松尾和子が歌うという、その後マヒナスターズが得意とする女性ボーカルをフィーチャーする変則グループ編成での受賞だった。眉をひそめて「♪たれよりも」とにごらないで歌う松尾和子の色っぽさは小学生にも伝わってきた。昭和歌謡の典型としては他に、浜口庫之助の詞曲による守屋浩の「有難や節」があった。いかにも日本人受けするように忘年会ソングを狙って、狙い通り売れたという曲だが、まさに歌謡曲の全盛期であったのだ。
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橋幸夫 『潮来笠』
18歳でデビューのジャケ写は意外にも着流しではなく、角刈りでもなく、高卒の若サラのようでした。 |
電蓄という武器を得た我々ポップス兄弟はようやく洋楽に浸れる環境になり、少ない小遣いからレコードを買うようになるのだが、洋楽情報はテレビからは入ってこないからラジオに頼るしかない。しかしまだラジオは一家に一台で、持ち運びのできるトランジスタ・ラジオは我が家になかったから、必然ある時間になると「勉強しなさい」とそれぞれ部屋に追いやられるのだ。中一になった兄がどこからか情報を仕入れてきたのだろう、この年の秋頃からFEN(現AFN)を聴き始める。戦後、在日米軍向け放送としてスタートしたFar East Network(極東放送網)は当然全部が英語なので、何がなんだか分からないのだが、リアルタイムで流行っているアメリカの音楽を流すので、先端を行く音楽関係者やミュージシャンはこぞって聞いていたらしい。我々は聴きだしていくうちに徐々に日本で流行する曲とアメリカでヒットする曲は必ずしも一致しないことが分かってきた。少なくともアメリカでヒットした曲が日本で紹介されるのに3ヶ月くらいかかったし、その上、アメリカでヒットしていても日本でシングル盤が発売されなかったりする。
ちょうどこの秋、FENのTOP20(毎週土曜日の夜9時からの30分番組)でかかり一発で気に入った曲があった。語り風のスローな曲調から始まり、ブレイクから急にアップテンポになる、という典型的な60年代ポップスと今では言える。ジョニー・ティロットソンの“Poetry in Motion”だった。我々アメリカン・ポップスの新参者にとってとっつきやすくノリの良いこの曲こそ「探し求めていた新しい曲」だった。我々兄弟は、日本発売を心待ちにした。が、何ヶ月たっても発売されない。我々が知らないだけかと思い、文化放送の「電リク」にリクエストした。すると「発売されていません」と言われる。何で? 日本でもすごく売れそうな曲なのに。結局、全米2位の大ヒットとなった“Poetry in Motion”は、日本で発売されなかった。“ケーデンス”というレーベルが日本のレコード会社と販売契約がなかったためらしいが、当時そんなことを知らない我々は「センスねえな」と日本のレコード会社の見る目のなさを嘆いたものだ。
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『涙ながらに』
It Keeps Right On A-Hurtin’/ジョニー・ティロットソン
待ちわびていた「ポエトリー・イン・モーション」が入っていたEP盤。「夢見る瞳(Dreamy Eyes)」はデビュー曲で小ヒットした(58年、35位)。「涙ながらに」は自作曲。 |
2年後の62年に、おそらく日本で初めてのレコードではないかと思うが、ジョニー・ティロットソンの4曲入りEP盤が発売になった。メインの曲は当時アメリカでヒットしていたカントリータッチの「涙ながらに」(最高3位)で、その中に「ポエトリー・イン・モーション」が入っていた。この曲の発売を心待ちにしていた我々は即購入した。ティロットソンは我々にとってポール・アンカ、ニール・セダカに続く期待の星だった。EPの裏面の歌詞カードを見ながら何度も聴いて暗記した。そうこうしているうちに翌63年、日本でも初めてのヒット曲が生まれる。その曲「キューティー・パイ」はアメリカではB面だったものの、日本ではこれで火がつきすぐに人気者になり、“Poetry in Motion”も「ポエトリー」というタイトルで64年にシングル発売され、アメリカに遅れること4年を経て大ヒットすることになる。
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『ポエトリー』 Poetry In Motion
/ジョニー・ティロットソン
64年に日本発売されたシングル。4年早ければね。 |
ティロットソンはその後65年に浜口庫之助が書いた「涙くんさよなら」を日本語で歌い大ヒットし、翌年この曲をもとに日本で映画化されたとき(日活『涙くんさよなら』。ジュディ・オング、山内賢、太田雅子らが出演)に来日も果たす。さらに66年夏、マイク真木が歌ってヒットしたやはり浜口庫之助の作ったフォークソング「バラが咲いた」を日本語でカバーし、これもヒットし(ハマクラおそるべし)、結局アメリカ以上の成功を日本で収める。私としては60年に独自に発掘した(?)初めてのシンガーでありアイドルであったが、その頃にはまったく興味がなくなっていた。というか、64年に「ポエトリー」となってヒットしたときにはすでにビートルズの時代に突入していたから、スウィート・ポップスの極みのようなポップスは卒業していたのだった。60年時点では、アメリカン・チャートで2位止まりなのが相当口惜しかったが、その時の1位は、当時はさほど印象に残らなかったものの後に私のフェイバリット・ソングとなるレイ・チャールズの「わが心のジョージア」であった。これも納得。
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『THE BEST of JOHNNY TILLOTSON』
ジョニー・ティロットソン
64年に日本で発売されたベスト盤。ここまではよく聴いた。「キューティ・パイ」「プリンセス・プリンセス」「ジュディ・ジュディ」など日本でヒットした曲がずらり。 |
このほかにもアメリカで大ヒットしているのに日本でレコードが発売されなかったり、発売されていてもほとんど誰に聞かれることもなく消えていった曲はたくさんあった。マーク・ダイニングの「ティーン・エンジェル」は60年の初めに全米で1位になり、日本でもコロムビアから発売されたようだが、知る人はほとんどいない。61年に「悲しい恋の物語」が全米1位になり日本でも知られるディオン(日本盤の表記は“ダイオン”だった)も、その前身のホワイト・ドゥワップ・グループ時代のディオン&ベルモンツの全米ヒット曲「恋のティーンエイジャー」(59年5位)や「いつかどこかで」(60年3位)なども日本発売されたが話題にならなかった。さらに以前も触れたが、「バイ・バイ・ラブ」(57年)「スージーちゃん起きなさい」「話してやろう」「全て夢で」(58年)「キッスをするまで」「恋の願い」「悲しい気持」(60年)と結構日本発売もされたエヴァリー・ブラザーズだが、いずれもヒットした形跡はない。リズム・メロディ・ハーモニーの音楽三要素のうち、当時の日本ではメロディのみにしか反応できなかったということだろう。今でこそ日本は男性のデュオばやりだが、流行るのがかなり遅かった。エヴァリー兄弟を当時ヒットさせていれば、日本も音楽性にもう少し広がりが出たのじゃないかと思う。せめてザ・ピーナッツにでも何曲かカバーしてもらえればよかったのに。
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『悲しい恋の物語』
Runaround Sue/ディオン
「“ダイオンとベルモンツ”のリーダー、ダイオンが放ったヒット」と書かれている。61年にソロで出しためちゃ名曲。日本ではスリー・ファンキーズが「浮気なスー」というタイトルで、原曲とは似ても似つかない情けないバージョンを出した。 |
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『コーラス・ヒット』 ザ・ベルモンツ
出身地のNYのブロンクスのベルモント・ストリートにちなんで付けたグループ名で60年までディオンと組んでいたホワイト・ドゥワップ・グループ、ザ・ベルモンツの珍しいソノシート。曲は「すぎにし日々」「恋のシガレット」と書かれている。 |
※印 画像提供…諸君征三郎さん
2008年4月30日更新
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