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アカデミア青木
第3回 『荒城の月』 |
日溜まりの公園で、暮れなずむ街角で、夜のしじまの中で、ひとり「童謡」を口ずさむ時、幼き日々が鮮やかによみがえる…。この番組では、皆様にとって懐かしい童謡の歌碑を巡ってまいります。今回は、『荒城の月』です。
小学校で習った歌の中で一番歌詞が難しかった『荒城の月』。その歌詞のモデルとなった「荒城」は福島県会津若松市にある鶴ヶ城といわれています。作詞者の土井晩翠*は旧制高校在学中に修学旅行で会津を訪れ、維新後荒れるに任せた城跡や白虎隊で知られる飯盛山を見て深い感銘を受けました。明治31年に東京音楽学校から中学唱歌集のため作詞を依頼されると、晩翠は会津で得た印象を元に『荒城の月』の歌詞を作り、滝廉太郎がそれに曲を付けました。
『荒城の月』
作詞 土井晩翠(どいばんすい、1871−1952)
作曲 滝廉太郎(たきれんたろう、1879−1903)
1.春高楼の花の宴、
めぐる盃影さして、
千代の松が枝わけ出でし
むかしの光いまいづこ。
2.秋陣営の霜の色、
鳴き行く雁の数見せて、
植うるつるぎに照りそひし
むかしの光今いづこ。
3.いま荒城のよはの月、
変らぬ光たがためぞ、
垣に残るはただかつら、
松に歌ふはただあらし。
4.天上影は変らねど、
栄枯は移る世の姿、
写さんとてか今もなほ、
ああ荒城の夜半の月。 |
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『荒城の月』の歌碑は鶴ヶ城にもありますが、昭和40年に天守閣が再建されて現在「荒城」とはいいがたいので、ここでは仙台市の青葉城址にある碑を紹介します。仙台生まれの晩翠は『荒城の月』を作るにあたり、青葉城の光景から『垣に残るはただかつら、松に歌ふはただあらし』の一節を得ています。この碑は晩翠が30年間教鞭を執ってきた旧制第二高等学校の教え子達が建てたもので、除幕式に招かれた晩翠は碑の前で頭を垂れて「ただ感謝あるのみ」と涙にむせばんだそうです。この式典から2ヶ月後の昭和27年10月19日に、晩翠はその生涯を終えました。
この歌は元々旧制中学の生徒向けの歌なので、私達が小学校時代に「難しい」と感じたのは当たり前です。旧学習指導要領を見ても、小学5年では「観賞用」の教材(『荒城の月』、『花』、『箱根八里』のうちいずれか1曲)として扱われており、中学2年になってやっと合唱の授業で歌われるようになるのです。でも、平成14年度からの新学習指導要領では「歌詞が難解」という理由で、『荒城の月』は必修教材(「共通教材」という)から外されました。合唱愛好家や関係自治体の働きかけもあって、今のところ教科書には載っていますが、文部科学省という後ろ盾がなくなった以上、『荒城の月』の命運は風前の灯といえます。今後この歌が教科書の中で生き残っていけるかどうか。それはひとえに関係者の努力に掛かっているといえるでしょう。
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*土井晩翠 本名、土井林吉。仙台市出身の詩人・翻訳家。二高教授。詩集「天地有情」、「晩鐘」他。ギリシアの詩人ホメロスの「イリアス」、「オデュッセイア」の邦訳などもある。昭和25年文化勲章受章。姓は本来「つちい」と読むが、後に「どい」へと改称。
土井晩翠像 |
[参考文献 |
成田正毅『想い出の土井晩翠先生』晩翠先生を讃える会 昭和30年 |
文部科学省 『小学校学習指導要領』(新・旧) |
同 『中学校学習指導要領』(新・旧)] |
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場所:宮城県仙台市青葉城址
交通:JR仙台駅西口バスプール9番乗り場から
「青葉通・理学部・工学部経由青葉城址循環バス」に乗り
「青葉城址」バス停下車、徒歩4分
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千代田区一番町の滝廉太郎宅跡(「荒城の月」の曲碑もある) |
2003年5月2日更新
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