古い新聞を見ていたら、「日曜日ならいいヨ 父親ばかりの授業参観」という見出しで父親参観日のはじまりを報じる記事を見つけたので紹介する。
「23日の日曜日、大田区立山王小で、父親のために学校、授業を公開した。これは、多くの父親が、日曜日のほかは学校や子どもの授業をみる機会がないことからとくに計画したもの。同日は午前中、子どもたちの授業を見たあと、希望者には実費25円で給食のパン、ミルクなども味わってもらった。また午後は父親と子どもたちでスクエアダンスなど楽しんだ」(朝日新聞/昭和36年4月24日)
◆授業参観そのものはいつからあるか?
この記事は1960年公開の映画「日曜はだめよ」をもじった素敵な見出しである。私が小学生のころは父親参観は6月の父の日に開催されていたようだが、一番最初は4月だったようである。日本の学校教育史において「授業参観」の始まりがいつかを調査してみたが、文部科学省では「わからない」(ホントかね)ということで、学校行事の変遷についての文献を当たってはみたが修学旅行や卒業式についてはあるけれど授業参観については未発見である(なんで私が興味のある学校文化の歴史に、いままで興味を抱く研究者はいないのか?)学校が校内を父兄に公開すること、義務教育への保護者の関心の低さを考えると、戦後の産物と予想はされる(全国に普及したという意味で。私立の小学校だったら大正時代から授業公開していそうだ)。寄付以外の活動、例えばPTA会などを通じて学校に保護者が積極的参加するのも戦後だからである。
日本のPTAは、戦後に、民主化をはかる米国教育使節団報告書から始まった。 それまで父兄会、母姉会、後援会、保護者会という名前でPTAらしきものはあった(明治32年の東京市の学校後援会が元祖)が、学校設備や催しの寄付や後援をすることがその主な仕事であった。寄付を集められる地域の顔役がその長に就き、ボス的支配の弊害もあった。
昭和21年に来日した米国の教育使節団は、その報告書で教育に果たすべき家庭の役割の重要性をうたっている。また、「父母と先生の会」「両親と教師の会」など、PTAを示唆することばを掲載し、その重要性と設置・支援の必要性を記している。これを踏まえて、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は民主主義の理念を啓蒙するため、PTAの設立と普及を奨励する方針を掲げた。この方針を具体的に推進したのは、中央ではCIE(民間情報教育局)、地方では地方軍政部であった。PTA組織のお手本として「育友会規約」が地方軍政部の指導によって作成された。
そしてGHQが昭和21年秋に文部省社会教育局にアメリカのPTA資料を提示し、日本におけるPTAの結成を指導し、文部省内に「父母と先生の会委員会」が設置された。そして、翌年3月に、「父母と先生の会−教育民主化のために−」と題するPTA結成の手引き書を作成し、全国都道府県知事にあてて文部事務次官名で送達された。さらに、昭和25年1月には、「PTA模範実例集」、「PTA参考規約とその解説」、「PTA結成の仕方及びプログラムの作り方」、「PTA質疑応答集」と4種類のパンフが刊行、配布され、全国にPTAがひろまっていくのである。
授業参観のことを「PTA授業参観」と称する学校もあるし、授業参観のあとにPTA総会をやる学校もあるので、PTA活動が始まってから授業参観が派生したと考えることに不自然さはあるまい。
<筆者注:結論としては、授業参観の起源はわかりませんでした。どなたかご存知できたら資料をご教示ください>
◆日曜参観に来た父の思い出
私の父親はまったくといっていいほど息子に関心がないようだった。高校もどこ受けるかを受験前日まで知らないほどの無関心さで、「勉強しろよ」とガミガミいうことなど考えられない。なにしろ大正生まれなのに、自ら週刊漫画雑誌を買ってくるのだ。唯一母だけが「中間テストが終わってから読みなさい」と漫画雑誌を隠してしまうくらいであった。
小学3年生のころ、父が珍しく授業参観にきたことがあった。牛乳配達を仕事にしている父は日曜でも休みがないのだ。いまの時代からは考えられにくいことだが元旦以外364日働いていた。いつも灰色か紺色の作業服を着ていたし、友人の父より15歳は老いた父が来るのは内心は照れと羞恥と困惑でイヤだったが、やはり来てくれたことは嬉しかった。背広姿の父は雨のなか、授業参観帰りに田畑デパートに連れて行ってくれ、食堂でサンドイッチを頼んだ。父と二人きりで外で食事をするのは初めてだったのでものすごく緊張した。父とエレベータに乗るのも初めてだった。4階までの密室内は重苦しかった。大人の気持ちをあれこれ推測してしまう、難儀な子どもである。
テーブルに着くと「なんでも食え」と父は張り切った。なんでもいいといわれると返って選択肢が狭められてしまう。私は無難にサンドイッチを選んだ。飲み物は断った。父がお金をどれだけ持っているのかわからない。父親に恥をかかせる子どもになるのはごめんだ。
すぐにウエイトレスがミックスサンドを運んできた。木製ザルの上に白いレースのナプキンが敷かれた上に、三角にカットしたサンドイッチが互い違いにのっていた。白い四角い袋がついていた。「お手ふき」と書いてあった。内部が銀色の袋から取り出したおてふきはヘンな薬品の匂いがし、あらかじめ湿っている丈夫な紙だったのでビックリした。珍しいから使い終わったのを家に持って帰った。父は無口なので何をしゃべったかは覚えていない。居心地が悪い時間が早く流れてくれればいいと思った。サンドイッチは食べた気がしなかった。
食堂を出ると、玩具売り場に行き、「なにか買ってやろうか」といわれた。家が貧乏であることを子どもの理解できる範囲で知っていたから「いいよ」と断った。それでも父はなんでもいいからどれか買いなさいという。本当に欲しいもの、例えば学研の電子ブロックなどを頼んだら1万円くらいもするから、父は困ってしまうだろう。父に金を遣わせるのが申し訳なく、エポック社のミニゲームの野球盤を買ってもらった。もちろん普通の野球盤である大きいのが欲しかったが、父がゼッタイに買える金額まで遠慮した。貧乏はいやだ。子どもの心を萎縮させる。「もっと高いものでいいんんだぞ」「本当にいいのか」「お母さんには内緒にしろ」
父と私はお互いにさびしい心を抱えて家路についた。家に帰って1時間くらいでミニ野球盤は飽きてしまったが、父の前では一生懸命楽しんでいるフリをした。父は親らしいことをした。子どもも子どもらしく振舞った。一見、何も問題が無いように見えるが、そこには素直な感情の結びつきはない。金がないのは哀れである。幸せをいびつにさせる。
皮肉なことに思い出の素材となる出来事は沢山ないほうが、かえってたくさん思い出せる。少ないひとつひとつの出来事に価値があるのだ。リアルにそのときの匂いや雑音まで映画のように脳裏に蘇る。父も、田畑デパートももうこの世にないけれど、これが「心のなかに生きている」ということなんだろうなと思う。子ども時代の父との少ない思い出を大切にしてきた私は、当時は惨めだったがいまは、幸せな気持ちで反すうしている。
●書き下ろし
2004年7月28日更新
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