トランポリン・松岡
第十一回『永遠のオナペット、渥美マリ』
挑発するようにゆっくり大きく開かれる女の両脚と洗濯物が散乱する部屋、中年男のリズミカルな腰の律動と被さる荒い息。男が突き上げる瞬間、冷めた瞳と揺れる肩と長い髪。今でも夢を見る、僕のオナペットナンバーワン、渥美マリ。
もう三十年も昔の話である。黙っていればどこにでもいそうな長い髪の女子大生が脱ぐと一見豊満に見えながら意外にシャープな線で最高のボディを見せる、スクリーンで僕はそんな彼女と出会った。
ある日突然現れて、中年男を虜にしてゆく彼女をスクリーンで見ていたのは三年くらいの短い間。男を魅惑の肢体で悩殺する渥美マリのいそぎんちゃくやでんきぐらげは何本か上映され、僕はすっかり嵌っていた。
彼女の乳房も腕も、大腿部も腰も、ムチッとして僕の手に吸いついてきそうな皮膚感を見せる。口腔性交で体液の全てを吸い尽くされそうなわずかに開く甘い唇、陰毛が透けて見えそうな薄い青色のパンティー、僕はスクリーンの彼女のセックスに翻弄され続けていた。
いそぎんちゃくやでんきぐらげといった渥美マリの映画は、精液に濡れた指先を嘗めるような卑猥な男の発想であると言いながら、悲しいことに僕のセックスはその過激な連想をさせる言葉に誘惑され、渥美マリに溺れたのである。
当時、大阪万博が開催され、映画では藤純子の緋牡丹博徒が大ヒット。僕は健康的な小川ローザのパンチラを卒業、セクシーな辺見マリや色気のある小川知子もオナペットのように騒がれていたが、十九才の僕は、肉欲的な魅力を発散する渥美マリに走った。
それは例えば新宿か池袋、下町の小さな美容院、見習いで雇われた日から店主の中年親父と情交を重ねるのが渥美マリ。投げ出すように肉感的な肢体を見せて気怠く男を迎え入れるシーンは彼女の十八番である。
僕は、彼女の上で腰を律動させる中年男に嫉妬しながら、その何分かのシーンで股間はじっとりと濡れて過敏な生理反応は抑制の限界を越える。
静まり返った館内に喘ぐ声が広がり、誰も身動き一つしないで男に犯される彼女に息を潜める。睫毛の先まで渥美マリの官能に浸りきる金縛り状態で、誰も動けないのである。
百分の一秒の間隔、唾液のような透明な体液が男性自身を潜って細く零れ、白いブリーフに染み込んでゆく。誰もがそうだったと思う、彼女の情交シーンの前では。
当時、オナペット女優扱いの渥美マリであったがオナペット人気は三番手位で低く、何だかそれが僕には妙に嬉しかった。
ハワイ生まれでムチムチボディの熟れたオナペット・クインのアグネス・ラムもまだいなくて、南沙織等の清純派で売り出したアイドルも絶望的片思いの男たちの手で毎夜汚されるオナペットランク付けを避けては通れないオナペット氾濫期の直前だった。
勿論、次から次へと際疾いヘアヌード写真集が出版される現在のように、太陽の下にセックスが解放された時代ではなかった。
渥美マリの白い餅のような乳房や、開いた両脚の間の陰毛の茂みに熱い僕を押し当てるような、生々しく曖昧で淫靡な想像による快楽は限界があり、後ろめたい思いをしながら通信販売に手を伸ばしかけた頃と違う現代は、日常の中にセックスが溢れていて、偶々立ち読みで手にした週刊誌に載っている二頁程度のヘアヌード写真で僕などついうっかりいい年齢をして中途半端にモッコリしてしまうことがある。
どんな理由を持ち出して弁解してもセックスが体に染み込んでしまっている中高年の僕には、この場合の芸術やアート感覚などは無関係なのだ。経験で体が覚えている柔らかい陰毛の茂みの奥下に隠れる快楽の肉襞に神経は集中。結局、硬く膨らみかけた股間の変化に自分一人慌て戸惑い、冷や汗気分を感じながら萎むまでその場にじっと立ち尽くすことになるのである。
僕がセックスを考えない日はなかったあの頃のメイドインジャパン・セックスマシン、渥美マリ。
ナニがめっきり弱くなった更年期障害も噂される五十歳を過ぎた僕の、永遠のオナペットである。
2002年12月20日更新
第十回『ジェームズ・ボンドのセックスとナニの話』
第九回『二十一歳の冬、僕とフォークと喪失と。』
第八回『大阪スチャラカ物と言えば、てなもんや三度笠で決まり。』
第七回『嵌った嵌った、森繁の社長シリーズとアレコレ」
第六回『ジュンとネネではなく、VANとJUNの話』
第五回『夏は怪談映画、あの映画看板も僕を呼んでいた。』
第四回『青春マスターベーション』
第三回『ワッチャンの超極太チンポ事件』
第二回『中高年男性、伝説のモッコリ。スーパージャイアンツ』
第一回『トランポリンな僕のこと、少し話しましょうか。』
→ |