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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

第10回 天然ガスで浮き沈み
−「東京湾岸天然ガス採掘ブーム」と
「船橋ヘルスセンター」の盛衰−
入場券のイラスト

 戦時中、東京湾岸では自前のエネルギーを求めて天然ガスの探査が行われたが、十分な成果が上がる前に終戦を迎えてしまった。そして数年の空白を置いて、東京の下町で、千葉県の西部で、天然ガスの採掘ブームが巻き起こった…。今回の昭和のライフでは、戦後東京湾岸で行われた天然ガスの採掘とその落とし子である「船橋ヘルスセンター」の盛衰について取り上げる。

・江東の地下から天然ガス

 昭和26年5月、東京都江東区の猿江公園にほど近い自動車修理工場の一角で歓声が上がった。深さ600メートルの井戸の底から、天然ガスを含んだ水がサイダーのように吹き上がって来たのだ。採掘を手掛けたのは武蔵野天然ガス研究所。この近くに戦時中の探査で掘り当てた小規模なガス井があるのを知り、試掘を行ったのだ。自噴する天然ガスの量は1日当たり1050立方メートル。ガスの熱量は、石炭から採れる家庭用ガスの2倍を超えた。当時の家庭1軒当たりのガス消費量は日量50立方メートルだったので、採掘されたガスを薄めて供給すれば、42世帯分のガスをまかなえる計算になる。この本格的な試掘の成功をきっかけに、東京湾のあちこちでガスの採掘が始まることになる。

・柳の下のドジョウで一発逆転

 ちょうどその頃、千葉県船橋市は財政難にあえいでいた。工場誘致のため市営で海岸埋め立て事業に乗り出したものの、資金が続かず計画がとん挫、埋め立て予定水域の漁業補償すら十分にできないでいた。江東区での天然ガス噴出のニュースを聞いて、市は「柳の下のドジョウ」を狙って、放置されていた埋め立て地で天然ガスの試掘を始めた。そして見事深さ1700メートルのところで、天然ガスと一緒に摂氏36度の温泉を掘り当てた。このガスと温泉を利用して大衆温泉場を埋め立て地に造り、観光客を誘致して埋め立ての残りを完成させようというプランが、市長の周辺で策定された。この案をたたき台にして誕生したのが「船橋ヘルスセンター」だった。昭和30年11月3日にオープンしたヘルスセンターの呼び物は、直径30メートルの「大ローマ風呂」と百畳敷きの宴会用大広間。「入場料120円さえ払えば、朝から晩までお湯に浸かって、大広間で一流二流の歌手の歌も聞ける」と大好評を博した。当初は成田詣の団体客がお得意様だったが、テレビでCMが流されるようになると、全国的な人気を呼んで来場者は更に増加、建物や施設は年々拡張された。30年代末には、10万坪の敷地に9つの大広間(総畳数2640畳)と120の個室、遊園地、大滝すべり、ゴールデンビーチ、潮干狩場、ボーリング場、ゴルフ場、人工スキー場、スケート場、大劇場、ホテル、結婚式場、遊覧飛行のための飛行場が備わり、「健康施設」から「総合レジャー施設」へと変貌した。この成功によって船橋市の事業はようやく軌道に乗り、新たに造成された埋め立て地には工場が続々と進出していった。

ヘルスセンター入場券
ヘルスセンター入場券
ヘルスセンター入場券2種(串間努氏提供)

・2匹目のドジョウを狙って家庭へ天然ガス

 昭和30年代以降、湾岸の天然ガス開発が進むにつれて、家庭向けの需要も生まれていった。


 船橋市の隣にある習志野市は、船橋ヘルスセンターのガス試掘が成功したことを知り、井戸を掘って市営のガス事業を起こそうとした。昭和32年1月に試掘を始め、33年10月、供給戸数450戸という規模で事業はスタートした。37年には供給戸数は7倍に供給量は20倍に達し、事業は順調に進んでいくかに見えたが、39年頃から供給不足に陥って、ガスを外部から購入せざるを得なくなってしまった。見通しの甘さが露呈して、こちらは残念ながら「2匹目のドジョウ」とはいかなかった。ちなみに、千葉県西部に拠点を持つ民間の京葉ガス(株)でも、昭和35年6月にガス原料を県内産天然ガスに切り替えたが、40年末には石油系原料(ナフサ)の導入へと追い込まれている。
 東京都ではこの時期「東洋天然ガス(本社:江東区南砂4丁目)」という会社が江東区と江戸川区でガス採掘を行っていたが、当時の供給状況については残念ながらわからなかった。

習志野市の天然ガス施設 習志野市の天然ガス施設

・地盤沈下でSOS

 大正時代から地盤沈下が進んでいた江東区では、昭和36年に「工業用水法」に基づく地域指定を受けて、地下水を汲み上げるための井戸の新設を禁止し、既存の井戸についても汲み上げ量を減らす措置を取っていた。


そのため表2にあるように、沖積層の地盤沈下量は36年以降減少していた。一方、沖積層の下にある洪積層の地盤沈下量は、逆に増加の一途をたどっていた。天然ガス用の井戸は深井戸で、洪積層を貫いていた。ガスを採取するため地下深層の地下水を大量に汲み上げた結果、その上部にある洪積層が沈んだのだ。地盤沈下をくい止めるためには、洪積層の沈下を止める必要がある。つまり天然ガスの汲み上げを規制しなければならなくなったのだ。
 同様な事態は船橋市でも起こっていた。昭和45年の船橋市の地盤沈下量は、1年間で最大24.1cmに及び、中心街から海岸にかけての地域はゼロメートル地帯となった。満潮や少しの雨でも多くの場所で浸水が起こった。そこで市は同年9月から段階的に揚水を制限する措置を取った。しかし、業者の中には「汲み上げた水からガスを取り、そのまま地下に戻せば地盤沈下には影響ない」と主張して、従来通りの量を汲み続けるところもあった。「地下に戻す」といっても水を採っている地下1400mの層ではなく途中の700mの層なのでその効果は疑わしいが、この主張をガス井の許認可窓口である東京通産局が認めたため、市や市議会は一斉に反発して、46年9月に「地盤沈下非常事態宣言」を出すに至った。12月になって、千葉県は船橋・市川両市と共に、この地域で天然ガスを汲み上げている業者(船橋ヘルスセンター他3社)から鉱業権を買い上げ、47年1月1日からガス井戸を廃止する方針を打ち出した。この措置が実行に移され、船橋市の地盤沈下は沈静化した。
 この千葉県方式を参考にして、東京都も同年末、江東・江戸川両区の業者から天然ガスの鉱業権を買い取り、天然ガスの採掘を停止させた。翌48年の江戸川区の調査では年間地盤沈下量は全地点平均で2.8cmと、前年から更に0.4cm減って、沈下に歯止めがかかったことが示された。(因みに年間沈下量のピークは43年の8.9cmである)

地盤沈下観測地点 江東区南砂町の地盤沈下観測地点

・宴のあと

 地盤沈下は収まったものの、この一連の措置は船橋ヘルスセンターの経営に打撃を与えた。セールスポイントである「温泉(鉱泉)」の汲み上げはできなくなり、お湯の加熱に使っていた天然ガスも得られなくなった。鉱業権買い上げ後のヘルスセンターは、「健康施設」としての魅力を失い、遊園地のついた「巨大なスーパー銭湯」と化してしまった。そのため入浴客は年を追う毎に減少し、昭和52年4月には施設の大半を閉鎖するに至った。船橋ヘルスセンターは、天然ガス採掘ブームのまさに「落とし子」だったのだ。

ヘルスセンター跡地に残る記念碑 ヘルスセンター跡地に残る記念碑
(週刊読売選定全国温泉コンクール
ベストテン入選記念碑昭和32年)

[参考文献

土屋秀雄『今だから語れる東京湾の光と影』千葉日報社 平成9年

『比べる懐かしグラフィティ いつか見た風景 船橋ヘルスセンターの巻』(ちばぎん総合研究所『ひまわり倶楽部』平成8年12月号外)

『習志野市史第一巻通史編』習志野市 平成7年

南関東地方地盤沈下調査会『南関東地域における天然ガスかん水の揚水と地盤沈下について』昭和47年

昭和26年5月10日付『朝日新聞』2面「江東の地下から天然ガス」

昭和44年10月3日付『朝日新聞』19面「急げ!地盤沈下対策」

昭和46年9月29日付『朝日新聞』3面「くんだ地下水戻せばいい」

昭和46年12月20日付『朝日新聞(夕刊)』10面「天然ガス井買い上げ」

昭和47年7月21日付『朝日新聞』24面「都が採掘権買収の意向」

昭和49年10月10日付『朝日新聞』20面「地盤沈下勢い鈍る」

昭和52年1月12日付『朝日新聞(夕刊)』8面「草分け『船橋ヘルスセンター』に幕」

京葉ガス(株)ホームページ http://www.keiyogas.co.jp/

通産省大臣官房調査統計部編『石油統計年報』]



2003年5月19日更新


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