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日曜研究家串間努
第12回
「子どものラジオ」
の巻


電子系が苦手な私

 文科系か、理科系かといわれればもちろん文科系である私は、カエルやザリガニを捕まえたり、近所の小山に地層を見にいったりする程度の理科的興味はあった。しかし中学生くらいから出てくる元素記号や物理の公式などは、てんでだめであった。小学校のときも乾電池と豆電球のつなぎ方の授業で理科教材が配られ、それは玩具遊びと等しいようなものであったから大好きだったけれど、『子供の科学』を毎月購読しているような科学少年だった友人のラジオ作りなどには丸っきりついていけなかった。いつかは、街の模型店でコンデンサーや抵抗などの部品を一個ずつ買えるようなひとになりたいと思っているままに、大人になってしまった。いまや街の模型店という存在自体が稀少だ。

 そういうプチ理科系少年に助け舟を出してくれた存在が、学研である。学研が発売していた「○年の科学」という雑誌では『鉱石ラジオ』を付録につけていた。くもの巣のかたちに銅線を巻いていくとコイルができあがり、アンテナを張ってイヤホンで聴くものだった。小学校六年生の夏、地元のお祭りの日にこの付録をつけた「6年の科学」を買ってきた私は、ラジオの製作にさっそく取り組んだ。電池がいらずに、ラジオ放送局の電波を聞けるとは不思議なことだ。本来はなぜそんなことが可能なのかを学習させるキットなのだが、私は、ただ、ただ、ラジオを自分の手で作り出したい一心だ。あせるあまり、煮えたぎった素麺の麺つゆが入った鍋に右手をくっつけてしまい、大やけどをおってしまったくらいだ。  
 包帯でぐるぐる巻きにされた右手でイヤホンを耳に当てるとNHKのニュースらしき男性の声が飛び込んできた。人生のなかでも5本の指に入る、底抜けにうれしかった瞬間だ。

教習から、鉱石ラジオへ

 戦後しばらくの間は、物資不足のためか自作するものや出来合いのラジオの広告は見当たらない。昭和26年の「図解ラジオ受信機組立講座」(国民ラジオ協会)や昭和27年の「ラジオと電蓄の作り方」(東京短波研究所)など、ラジオの製作法自体を学ばせるものが中心だ。もちろん「子供の科学」や模型専門誌でのラジオ広告は、早い時期からみられるが、一般少年雑誌の通販広告で見られるのは、昭和29年に「コメットラジオ」というのを千代田通信商事部が売り出しているのが確認できる程度なのだ。カメラが戦前から子ども雑誌に広告を出し、戦後も盛んだったことと比べると、娯楽の特性の差といえようか。情報を受け取るばかりのラジオよりも、カメラのほうがモノをクリエイトする楽しみが強かったから人気だったのかも知れない。テレビ放送が普及していない昭和20年代にはラジオ番組にも子ども向け番組が多く存在し、その「チャンネル争い」を防ぐために自分専用のラジオで聴くという需要はなかったのかという疑問はある。しかし当時は、一人一室の子ども部屋は与えられず、「お茶の間」で家族揃って同じものを聴くという文化があったから、「マイラジオ」というものの必要性はあまり出にくかったのだろう。

ゲルマニウムラジオからトランジスタに

 真空管ラジオは電源が必要である。このような本格的なラジオは高くて子どものこづかいではなかなか買えないものであった。そこで、子どもたち用には「鉱石ラジオ」「ゲルマニウムラジオ」というラジオが喜ばれた。ラジオの筐体のなかに、ゲルマニウムダイオードという検波器が入っていて、電池もいらず、ラジオ局の放送が聞こえる。ゲルマニウムは空中を飛び交う電波をよく集めるのだ。しかし、このラジオは、安いだけあって、スピーカーがなく、微弱な電波を聞くにはイヤホンを耳にあてなければいけない。
 広告でも昭和32年に「超小型ゲルマニウムラジオ」(大洋工学社)や昭和33年の「ダイヤモンドD58」(新光短波研究所)が目立っている。特に後者は、ハイ・ファイ・ラジオ(Hi Fi)としてゲルマニウムで短波と中波両方が聴けるとアピールした。

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 即席ラーメン登場や東京タワー建設の年で知られる、昭和33年ころからは、携帯トランジスタラジオの価格がこなれてきたようだ。家庭用ラジオとしても昭和31年に現在のソニーが国産第一号のトランジスタ・ラジオを発表するなど、真空管ラジオからトランジスタ時代に変わるときであった。トランジスタはゲルマニウムより感度がよく、中波も短波も聴けることがセールスポイントとなっていた。菊池電機が昭和33年に「ビーコン3号トランジスタ」の広告を出し、昭和35年には東京短波研究所や少年模型科学研究会、東京オプチカルなどと少年向けのラジオメーカーが増えていった。競争が激しくなると、各社は手を代え品を代え、ラジオに付加価値をつけた商品を開発した。東京科学教材社は昭和35年に「懐中電灯つきゲルマラジオ」を発売し、ミニマン株式会社はロケット型、こけし型、ペンシル型など、形にこだわったバラエティラジオを発売した。特に宇宙時代を先取りしたロケット型は好評だったのか昭和40年代まで脈々と息づき、いまだ記憶に新しいかたもおいでだろう。昭和30年代後半になると「ファースト」ブランドでファースト電機産業が広告を多く出稿し、昭和40年代に入ると各社は6石トランジスタなどの石の多さを競うようになる。

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 所得の増大とともに生活水準は向上し、ラジオへの憧れは一時停滞したようにみえたが、昭和49年にニッポン放送が開局20周年を記念して、ラジオリスナーを増やすため、ベリカード集めを伴うBCLラジオブームを中高生の間に流行させた。そのため少年雑誌のラジオの広告は一気にナショナルやソニーの万単位の値段の高級短波ラジオに席巻されていく。しかし短波が聴けるラジオを工作模型や、少年向けの出来合い物にしたメーカーはないことや、子どもたちの工作離れとあいまって、自作需要を掘り起こせず、ラジオ広告は次第に減っていき、専門誌にその舞台を移すことになった。

「小さな蕾」誌に発表のものを改稿
筆者は実は、ラジオについては余り詳しくないので、誤り、こんな基礎的な情報が欠けているなどのご指摘がありましたら、ウエブマスター宛までお知らせくだされば幸いです。


2004年9月17日更新


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