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11.あの先生のグッズがほしい

加藤真名

ふろく


 セツコグッズ、macotoグッズ、亜土ちゃんグッズ。昭和40〜50年代に少女時代を過ごした人にとって、これらはとてもなじみ深いものではないでしょうか。筆箱や色鉛筆、バッグや水筒、バインダーや自由帳、おこづかい帳、切り取ると名刺になるメモ帳…… このころ小学生だった私も、周りの友達もみんな、かわいい女の子が描かれた文房具や生活用品を毎日のように持ち歩き、使っていたものでした。しかし、当時まだ10歳に満たない少女の頭では、これらのグッズと、イラストレーター・作家である田村セツコ先生、高橋真琴先生、水森亜土先生とは、当然結びつきません。なので後に、この先生方が少女雑誌で活躍していて、表紙やふろくのイラストを描いていたことを知ったときには、「ええ〜、あの色鉛筆や自由帳の絵が『りぼん』や『なかよし』のふろくになっていたなんて!」と新鮮な感動を覚えたものでした。

ふろく

ふろく

ふろく

 自分が小さいころ、ふつうにお店で買って使っていたグッズが雑誌のふろくにもあった。昭和50年代から少女雑誌を読み始めた私にとってはこれだけでも「トリビア」なのに、さらに驚かされたことがあります。それは、上記の3人のほか、昭和40年代までに少女雑誌で人気だった先生方が一誌、一社だけではなく、複数の出版社の雑誌や複数の会社の商品に同時期に登場していたこと。「専属」という概念はまだこの時代にはなかったのでしょうか?
 そんな先生方は各誌各社でひっぱりだこ。編集部にたまたま顔をだしただけでも「ちょっとイラスト描いていってよ」と、飲みの誘いと同じような軽いノリで声をかけられてしまうそう。ふろくに先生方のイラストがつくかつかないかで雑誌の売上が変わってしまうこともあったようで、時代のおおらかさとともに「人気のあるものをとにかくとりあげて、少女たちを引き付けよう」という作り手側の貪欲さを感じずにはいられません。

 「○○先生のこのケースは、来月号を買わないと手に入りません」「このふろくは街で買うと300円以上はします」ふろくの予告にこれらのコピーが躍る昭和40年代、先生方が描き出す世界〈イラスト〉に魅了されていたのは読者の少女たちだけではなく作り手側も同じであり、みんなが様々な方向から「あの先生のグッズがほしい」と熱い視線をおくっていたのです。

 実は昭和30年代にも、この言葉を囁かれつづけていた作家が存在していました。
 内藤ルネ先生のことを、みなさまはご存知でしょうか?

 内藤ルネ先生は中原淳一氏に招かれ、『ひまわり』や『それいゆ』を発行していたひまわり社に入社。昭和29年7月に創刊された『ジュニアそれいゆ』には主力メンバーとして参加し、イラスト・人形・手芸作品を掲載する一方で、スカーフ・ハンカチ・茶碗などの雑貨をデザインし複数の会社から発売していました。これらは現在でいう「キャラクター商品」の先駆けです。

 それらの活動と並行して、昭和33年の『少女』(光文社)を皮切りに、39年ごろまで少女雑誌のふろくの制作に携わることになり、さらにその人気を高めていきます。ピークとなる昭和35年前後には、『りぼん』『なかよし』はもちろん、5・6誌をほぼ毎月かけもちするという売れっ子ぶり。当時の日本は貧しく、少女向けの「キャラクターグッズ」はまだ何もなかったため、ふろくがその役割を果たしていたという時代背景もありました。まさに「人気作家のイラストが一つふろくにつくだけで雑誌が売れる」を体現しており、「内藤ルネ先生の」「内藤ルネ先生がデザインした」の冠がついたふろくは、少女雑誌の世界において特別なブランドでした。これは少女雑誌ふろくにおける「作家ブランド」の始まりとなります。

 ルネ先生のイラストは、なぜこれほどまでに人気があったのでしょうか。それは、これまでの少女雑誌の主流であった「淡く儚げな線と色使いで、愁いを帯びた伏目がちな少女を描く」抒情画とは対照的だった点にありました。太い輪郭線とはっきりとした色使いで描かれた新時代の少女たち。その瞳は大きく開かれ、こちらを見つめています。明るさと活発さを感じさせる絵柄は、「かわいい」という感情を少女たちの心に呼び起こしました。さらに小物や動植物のデフォルメの仕方は、現在市販されている文具や小物にもその影響を見つけることができます。そう考えると「ファンシーグッズ」の原点はルネ先生にあったともいえるでしょう。

 レターセット、シール、手帳やアクセサリーなどあらゆるふろくをデザインし、少女たちのもとに届けてきたルネ先生の得意分野だったのが、紙バッグやケース類です。商品を入れるための持ち手のない紙袋や米軍ショップで売られていたクラッチタイプのファイルケースを頻繁にふろくにとり入れ、これらを小脇に抱えて歩くことを少女たちの間に流行させました。

ふろく

 また、ルネ先生は人形作家でもあり、『少女』の別冊ふろくの表紙を自作の人形で飾っていました。『少女三人』という続き漫画は、牧美也子先生が絵を描いた「かなしい三人の少女の、なみだの物語」のはずなのに、表紙の人形たちは祭りのおみこしを担いでいたり、お正月の晴着に身を包んでいたりと、明るく楽しげ。その他の別冊も、表紙と内容とは全く関連なく作られており、そのミスマッチがかえって不思議な魅力を醸し出していたようです。

ふろく

 『りぼん』『なかよし』が創刊されてまだ間もない時代から、時代を動かす力を兼ね備えた、真の意味での「アーティスト」が少女雑誌上に存在していたことを、恥ずかしながら私はつい最近まで知りませんでした。そして、2年前に弥生美術館で3か月間にわたって開催された「内藤ルネ展」(同館始まって以来の入館者数となり、驚異的なトップ記録を作ったそうです)で、ルネ先生が昭和40年代以降にデザインした雑貨を目にして、さらなる衝撃を受けました。

 8歳年上の姉が大事に飾っていた兵隊さんの貯金箱や、冷蔵庫や窓、ギターに貼りまくっていた、てんとう虫やイチゴ柄のビニール製大型ステッカー「ステンシール」、学校帰りに寄り道したファンシーショップで「パティ&ジミーのまねっこだ〜」と友達と言い合っていた「ジョン&エミイ」の文房具…… 実はみんなルネ先生が生み出したものなのだそう。内藤ルネという名前は知らなくても、私はルネ先生のグッズに囲まれて少女時代を過ごしてきました。

 そして平成16年2月、ルネ先生は人形、ステーショナリー、Tシャツなどの新しいルネグッズを発表し、私たちのもとへと届けます。少女雑誌を卒業しても、ルネ先生は時代を超えて、少女の心を持った人たちのそばにずっといてくれるのです。

 さらにルネ先生は昭和46年に、ロンドン動物園で見たパンダをもとに、陶器や文房具などのパンダグッズを発表しています。パンダが日本にやってくる、まだ1年も前のこと。10.ニュースとふろく 昭和30・40年代で、「来日が決まる前からパンダのふろくはあったようで、少女たちの間では、パンダはもうすでに知られた存在だった」と書きましたが、これもルネ先生が日本中にパンダグッズを広めてくれたからなのかもしれませんね。ふろく

 次回は昭和50年代を目前にした、少女雑誌とふろくについて

取材協力:弥生美術館
参考文献:『内藤ルネ 少女たちのカリスマ・アーティスト』河出書房新社 2002年


2004年2月4日更新
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10.ニュースとふろく 昭和30・40年代
9.スターはいつまでもスター
8.遠い世界に思いをはせて
7.ステキな衣裳を着てみたい
6.気分はバレリーナ
5.おしゃれ小物
4.ふろくでお勉強
3.別冊がいっぱい
2.『りぼん』『なかよし』が生まれた時代
1.ふろくって何?


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