串間努
第6回「デパートの屋上」の巻
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デパートの屋上は、なんでも飲み込むカオスの街である。
観賞魚やペットフード、盆栽に綿菓子の自動販売機、ゴルフクラブ売り場も物置販売場もここだ。たまには墓石フェアもやったりして。おしゃれなデパートの各階フロアーに置けないようなものは皆、屋上に上がってきたのだった。しかも神様の祠までまつってあるデパート屋上だってあるのだ。そんな屋上に吹き溜っている人間も、営業成績の上がらないおサボリセールスマンや行き場のない失業者。仲のいい同僚などいないサビシイOLが北風の中で食パンをかじっていたり、正体不明のおとうさんが眠りこけていたり。実際、デパートの屋上と図書館はお金がかからないで時間をつぶせる、フトコロとココロのサビシイ貧乏人のオアシスなのだ。
……というデパートの屋上の『陰』の話は置いておこう。
昭和40年代は、地方都市には地元資本の百貨店がまだ残っていた。いまは高島屋、西武、東武、そごう、近鉄、三越、松坂屋などの有名デパートが多いが、それらの地方支店も昔は地方デパートだったりするのだ。最初は「提携」という形でゆるやかに手をつなぎながら、そのうち大デパートに改名する。千葉市でいえば奈良屋百貨店が三越と提携して、「こんど三越が来る!」と街の話題にはなったが、地元商店街の反対で「ニューナラヤ」という名前に譲歩、しかし数年後なしくずしに「千葉三越」になっていった。昔は中元や歳暮の包み紙が重要視され、「三越」の包装紙で包まれたお中元をもらうと「すげー」と思われ、「京成ストア」の包装紙だと「なあんだ」という量販店ヒエラルキーがあったから「三越」が来るというのは商店関係者には死活問題だったのだ。だが、いまはコンビニの包み紙でも平気で手土産に持ってくる時代、そんな包装紙ブランド信仰は死に絶えたかと思われる。(ついでにいうと私はいまでも、ヤマザキデイリストアのおかきや、駅のキオスクで買ってきた「ひよこ」「文明堂カステラ」<駅売店かどうかは包み紙でわかる>を手土産に貰うと「ああ、手近で済ませたな」と思う。私が住んでいる大宮駅の売店で買ってきたものがなんで手土産なんだよ! それらを貰ってちょっとだけ腹ただしいのは、相手があまり気をつかっていないことがわかるからである。私はなるべく地元の和菓子屋で買ってもっていくようにしている。とはいえ近頃は初めて個人宅を訪問するのに手土産さえ持ってこないヒトが多い。法人にはいらないけど、個人レベルにはちょっとしたものを携えていくという文化は死に絶えたのか?)
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昭和33年頃の奈良屋
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のちに千葉三越などというダサい名前になって地元の夢を裏切ってくれた、奈良屋百貨店の屋上には大きな観覧車があった。それどころか、メリーゴーランドやコーヒーカップもあった。柵の周りの望遠鏡は1分30円。要するに地元で一番高い建物と言ったらデパートくらいしかなかったので、展望台の役割も果たしていたのだ。ゲーム機器も豊富だった。一番印象に残っているのは「ペリスコープ」という、4人くらいがいっぺんにプレイできる横長の筐体の軍艦ゲームだ。潜望鏡を駆使して、敵潜水艦を照準にとらえると赤いボタンを押す。光がピピピと反対側の壁に走っていき、潜水艦に命中するとドーン!と沈没。とにかく横が4メートルくらいあるどでかいゲームであった。ビンボーだった私はシャッターが降りて真っ暗になっている潜望鏡を覗いて、赤いボタンをペチペチと虚しく押しているだけであったが。ってどうして私は話を暗くてしまうねん!
この奈良屋に32才の母に連れられてゲームをし、帰りに売店で売っている「明治スカット」という30円のビン入り炭酸飲料を買ってもらうのが楽しみであった。このころはいまのようにコカコーラがどこにでも進出しているような寡占状態ではない。自販機も少ない時代、売店では自分のところで扱っている牛乳メーカーやビールメーカーの清涼飲料を仕入れて売っていたのだ。清涼飲料を販売する冷蔵庫のショーケースは牛乳メーカーのものだったため、明治、森永、雪印も牛乳以外のビン入り炭酸飲料を販売最前線の要求で発売していたのだ! と、私は推測する。缶の自販機が街角に氾濫するまでは、各地に販売店を持つ牛乳メーカーから、観光地や商店は清涼飲料を仕入れ、家庭用には酒屋ルートでビールメーカーが清涼飲料を配達するという流通体制が整っていたからである。日本人は直接ビンや缶に口をつけて飲んだり、外で立ち飲みすることに、倫理的・美学的に抵抗があったが、それも昭和40年代には薄くなってきたということもあるだろう。
この頃、千葉のどのデパートの屋上にもパチンコ台があった。扇屋百貨店(のちにジャスコ、イオングループ)のは10円入れると出てくる玉数が10発と決まっていて、チューリップに入る度にガムが1枚出てくるもの。「グレープ」「オレンジ」と書かれた景品のフルーツガムはまずくて、とにかく一生懸命噛んでいないと口の中でトロトロに溶けてしまうシロモノだった。奈良屋百貨店のは玉を一発一発込めて打つ旧式パチンコで、入賞するたびに玉が出てくる普通のパチンコ屋タイプ。当時、少年マガジンで「釘師サブやん」が連載されており、ファンだった小学1年の私は、漫画で覚えた「チューリップ二連がえし!」「金札勝負!」などのセリフをいいながらやっていた。サブのライバルの「みたま・いっしん」(漢字忘れた)が着流し姿で景品カウンターに1円玉をパチリと置いて1玉だけを買うのにシビレていた私の、このころの将来の夢は、セルを利用した「ゴト師」になることだった(笑)。ゴミ捨て場から中古パチンコ台を拾ってきたことがあったが、ハンマーは家にあるにしても、パチンコの玉が先端についたゲージ棒は入手できがたく、釘師ごっこを子どもがやるのは難しいのであった。
千葉にはなかったが、東京には西武や東武、京王などの私鉄がデパートを経営していた。彼らは沿線や終点に遊園地を持っている。池袋や新宿などのターミナル駅に百貨店をつくり、屋上に遊園地を作ったというのは、小さい遊園地と大きな遊園地を私鉄がつないでいる格好だ。日曜にはおでかけでデパートの屋上で遊び、年に1回くらいは電車に乗って遊園地に遊びにいったろう。楽しい遊園地に何度も行きたい子どもの欲求を、ターミナル駅デパートの屋上はなだめてくれた。
コンピューターが無いころだったから、ゲーム機や遊具の効果音は機械的なベルやブザー。ブーとかチリンチリンとアナログの音が屋上に鳴り響いていた。あの、日曜日に子どもたちで賑わっていた屋上は今はもうどこにもない。
●書きおろし
2003年4月7日更新
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第5回「家の中には家電リモコンがいっぱい」の巻
第4回「デパートその2 『お子さまランチ』」の巻
第3回「デパート その1」の巻
第2回「シャンプーの変遷」の巻
第1回「レトロスタイルを気取るなら『スモカ』で行こう!」の巻
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