昭和四十四年に千葉の小学校にあがったときからすでに石油ストーブが教室にあった。電池による自動着火では無い。寸胴型の上部のフタを開け、点火したマッチ棒を金属棒の先に載せて、静かにストーブの芯まで降ろした。放送委員になったときは放送室で、たったひとつのストーブを3人で使えたので、給食の食パンを焼くことができた。学校給食で一番不満だったのが、そのまま生で食パンを食べることだった私にとっては、トーストにマーガリンを塗ることができることが至福の時間であった。
明治時代の冬の教室を温めていたのは大型の「火鉢」だった。しかし広い教室を温めるには不向きで、大正年代から薪ストーブに変わった。こぼれた火が木造校舎に広がらないようにブリキの下敷きの上に置かれた。はじめは鉄板で作ったドラム缶型だったが、後には鋳物製のダルマ型になり、燃料も石炭に変わっていく。
東京市では関東大震災復興のため、大正期に鉄筋校舎が建てられたことがあったが、その際、蒸気暖房によるセントラルヒーティングが導入された。しかし鉄筋校舎で蒸気暖房を行ったとき、室内温度を欧米並みの基準である一七〜一九度に設定したところ、家庭での室内温度との差が激しく、児童が風邪にかかりやすくなったため、暖房温度は一三度に定めることになったという。
だるまさんの形をしている鋳物製の「ダルマストーブ」は大正五年頃から一般化し、長く学校現場で冬の暖房器具として親しまれてきた。特に学校用のものは大型で「尺五」と呼ばれた。メーカーとしては「福禄」が有名だったが、平成四年に製造を中止した。
薪ストーブは焚き付けが難しく、低学年の場合は用務員さんや上級生に火をつけてもらったそうだ。戦前から昭和三十年代までの燃料は薪や石炭が主流だったが、昭和三十年代後半からコークスへの切り替えが進んだ。コークスとは石炭を高熱で蒸し焼きにした固体だ。無煙で火力が強く、長時間燃えるため、薪のように瀕雑につぎ足さなくても済む。また、高度成長期になり森林資源の減少から都市部では薪の調達が困難であり、高価なものになっていた。
そして「エネルギー革命」により石油転換化が進み、昭和三十年に株式会社コロナが日本で初めて石油ストーブを開発した。
学校のストーブも石油やガスに切り替わるが、この時期は地域によりまちまちである。横須賀市では昭和四十九年に石油ストーブになったが、北国では遅く、青森県の弘前では昭和末期まで石炭を使っていた。
東京の小中学校でコークスストーブが終了したのが昭和五〇年前後。コークス製造元の東京瓦斯が昭和五十一年三月で製造をやめたのだ。コークスストーブは燃料費も器具もガスストーブ、石油ストーブよりも安い。しかし昭和四十年代から切り替えが進められていたが、予算もなく、さらに石油ショックでコークスのほうが経済的になったのでコークスストーブが東京では主流だった。コークス製造中止に東京中の学校の暖房がピンチとなった。ガスに切り替えるには都内全域あわせると三百億円は必要だった。燃料費も三倍かかる。
私たちは金網で囲まれたストーブの上へヤカンをのせ、湯気で教室の空気の乾燥を防いだ。給食がない時代はこのお湯を昼食時に飲んだり、弁当箱をストーブの回りにおいて温めたりしていたようだが、給食世代にはそのような経験がない。
ガスクリーンヒーターなどに切り替わった現在、築四十年の鉄筋校舎には、ストーブ時代の煙突用の穴が遺跡のように開き、昔を物語っている。
●「はるか」を改稿
2005年2月8日更新
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