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「昭和のライフ」タイトル

アカデミア青木

第12回 鯨肉がまぼろしに変わるまで

 小生が小学生の時、学校で一番人気のあったメニューは「鯨のケチャップソースあえ」だった。そのころ鯨肉は近所の鮮魚屋で気軽に買うことができたし、父は「鯨のベーコン」を肴に晩酌を楽しんでいた。だが、畜産業の発展や国際的な捕獲規制により、鯨肉は食卓からも学校給食からもすっかり遠離ってしまった。今回の昭和のライフでは、戦後の鯨肉のたどってきた道を振り返ってみたい。
捕鯨船
1.近代捕鯨が始まるまで

 日本人と鯨との関わりは、貝塚の中から鯨の骨が見つかることから、遠く縄文時代まで遡ることができる。ただし、捕鯨が事業として確立されたのは江戸時代の慶長17年(1612年)のことで、和歌山の太地にいた和田頼元が網を使って組織的な鯨漁を始めてからという。この漁法は、その後高知、長崎方面へも伝わり、従来の「突き捕り」と呼ばれる漁法を駆逐した。また、千葉の南房地方でも捕鯨がおこなわれていたが、いずれの地域でも漁は沿岸部で行われ、その状況は明治半ばまで続いた。
 日本で近代捕鯨が始まったのは明治20年代になってからで、まずアメリカ式捕鯨が導入された。頭部に爆薬を装備した手投げ銛で鯨を捕獲し、母船上で直ちに解剖するという方式であったが、あまり普及せずに数年で終ってしまった。その後、32年になって銛を大砲で打ち出すノルウェー式の捕鯨技術が導入された。沖合で鯨を捕獲した後、曳航して陸上の処理場で解剖する方式で、この方式が日本に定着した。これ以降近海での捕鯨が本格的し、そのため鯨資源を保護する必要にせまられて、42年に捕鯨の取締規則が作られた。これより、捕鯨業は政府の許可が必要となった。ちなみに当時活躍した船団の数は、30隻前後という。

2.南氷洋の捕鯨始まる

 昭和9年、従来陸上で行っていた鯨の解剖・処理を全て母船で行う「母船式捕鯨」が始まり、ノルウェーで建造された母船「図南丸」と3隻の捕鯨船が鯨の宝庫である南氷洋へと出航した。図南丸は、シロナガス鯨125頭、ナガス鯨83頭、ザトウ鯨4頭、マッコウ鯨1頭を捕獲し、従来の近海捕鯨に比べ格段の成果を上げた。これをきっかけに母船式捕鯨は、一躍捕鯨業の中心的漁法となった。捕鯨母船が相次いで建造され、16年12月に太平洋戦争勃発まで、6つの船団が南氷洋での捕鯨に活躍した。
 戦時中、鯨から採れる鯨油を保管する大型のタンクを備えていた捕鯨母船は、軍に徴用されて原油輸送に従事したが、連合軍によって大半が撃沈されてしまった。しかし、戦後の食糧難を解消するため、捕鯨は直ちに復活した。まず昭和21年3月に小笠原近海の操業が再開し、続いて南氷洋の捕鯨が復活した。


 日本人が飢餓に直面していた昭和20年代前半、牛、豚、鶏、鯨肉を合計した肉類供給量のうち4割超が鯨によって担われた。主食すら満足に供給できる状態ではなかったので、穀類を畜産用の飼料に回すことなどできなかったのだ。当時の新聞を見ると、22年4月に塩漬け鯨肉が50匁4円50銭(100gあたり2円16銭)の値段で配給されている。これは牛肉(中級肉で100g8円80銭)に比べるとはるかに割安だった。鯨は庶民の食卓に欠かせないものだったのだ。
 昭和20年代後半から30年代半ばまで、肉類供給に占める鯨肉の割合は3割前後と安定していた。競合相手である牛肉、豚肉、鶏肉の価格動向を表2で見ると、価格面で鯨肉の優位はゆるぎなかった。この時期が「鯨肉の黄金時代」ということができる。


鯨の竜田揚げ

鯨の竜田揚げ


3.「畜産業の発展」という内憂

 戦後、食卓が洋風化していくにつれて、肉類の需要は年々高まっていった。それに対応するため、昭和30年代半ばから養豚、養鶏業が盛んになっていく。豚の飼育頭数は、昭和35年が191万頭なのが、40年には397万頭、そして45年には633万頭へ、鶏は35年に5462万羽なのが、40年には1億3838万羽、さらに45年には2億2353万羽へ、それぞれ急速に増えていった。その結果、40年代に入ると肉がだぶつき始めた。昭和42年には、畜産振興事業団が買い上げて備蓄してきた豚肉を学校給食へ回す処置まで取られるようになった。こういった状況の下、表1にあるように肉類供給に占める鯨肉の割合は、30年代後半から下降し始める。また価格の面でも、表2にあるように昭和40年以降、豚・鶏肉との差が縮まり始める。国際的な反捕鯨運動は47年6月にストックホルムで開催された「国連人間環境会議」をきっかけに顕在化するが、それ以前に「消費者の鯨離れ」という内憂が、日本の捕鯨関係者を襲っていたのである。

鯨のケチャップソースあえ

鯨のケチャップソースあえ


4.強まる捕獲規制と鯨肉の「まぼろし」化

 鯨肉価格は、捕獲規制を見越して47年以降上昇の一途を辿り、50年には鶏肉価格を上回る。ここにおいて鯨肉は「最も安価な肉」の地位を鶏肉に譲ることになった。それは必然的に「学校給食からの退場」を意味していた。なにしろ予算上、学校給食は常に安価な食材を使う必要に迫られていた。もっとも、冷凍赤身の鯨肉は解凍の過程で全重量の45%に及ぶ「ドリップ」と称する体液を失ってしまうため、ドリップを失った鯨肉ベースで考えれば、豚肉や鶏肉の価格が鯨肉価格の1.8倍を切った時点で(昭和45〜46年頃)、鯨肉の退場が始まったと見ることができる。幸いなことに、小生は小学校を卒業する昭和51年まで鯨肉を味わうことができた。おそらく調理員さんがドリップの出ない解凍方法を採用して、鯨肉を使うように心掛けたからだろう。
 昭和52年4月、商業捕鯨は中止され、54年には北洋捕鯨が、62年には近海の大型捕鯨が終了し、ついに鯨肉は「まぼろし」の肉と化してしまった。今日、日本沿岸での小型捕鯨と南氷洋でのミンク鯨の調査捕鯨が細々と続けられているが、近所の鮮魚店で鯨肉を見掛けることはめったにない。現在通販で購入できる鯨肉は、ミンク鯨で1Kg6〜9千円、ツチ鯨で3300円程度といわれている。昔の味をご自分で再現されたい方は、ネットで捜してみたらどうだろうか。

ツチ鯨

[参考文献

『特別展 捕鯨の歴史』千葉県立安房博物館 昭和56年

板橋守邦『南氷洋捕鯨史 中公新書842』中央公論社 昭和62年

週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社 昭和56年 「牛肉」の表

『世界大百科事典』平凡社 昭和47年 「畜産」の項

『朝日新聞』昭和22年4月13日(朝刊) 2面

『朝日新聞』昭和42年3月4日(朝刊) 1面]



2003年9月3日更新


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