第12回
奇想天外な少年マンガとクレイジーな“おとなの漫画”
小学生の頃、少年マンガの登場人物をノートに描き溜めていたことがある。マンガ自体は幼稚園の頃から読んでいたが、描き出したのはいつごろだろう。ウチの場合、月刊誌は「鉄腕アトム」の『少年』、59年から発売されるようになった週刊誌は「スポーツマン金太郎」(寺田ヒロオ作)の載っている『少年サンデー』を定期購読していた。アトムのその後の活躍(63年にテレビでアニメ化)に比べると「スポーツマン金太郎」は残念ながらブームにならずに終ってしまうのだが、奇想天外なストーリー(あの足柄山の金太郎が熊を引き連れてプロ野球のピッチャーになり活躍する)と、絵が見やすかったことと(だから描き易かった)、何よりも野球が題材なので大好きなマンガだった。
主人公のスポーツマン金太郎やそのライバル桃太郎(色の黒い濃い顔の金太郎とは対照的に桃太郎は色白でサッパリした美少年顔をしていた)はもちろんだが、一番簡単に描けたのは作者の寺田ヒロオの自画像だった(特徴のパーマ頭をくるくるくると三つ書いて鼻をでかく書けば似せられた)。いろんなマンガがノートいっぱいに溜まった頃、たまたま訪ねてきた親戚が「上手ね〜」と言い持っていってしまい、それを境にあんまり描かなくなった。
大学生のとき“ジョーのライバル”力石徹が死んだ時点で自分にとっての少年マンガはピークを迎えるが、二十歳過ぎても少年マンガ誌を読み耽る日本人の知的レベルの低さを識者やメディアからよく指摘されたものだ。今となってみれば、日本で海外に通用する文化はマンガくらいしかないのが皮肉に思える。それは、寺田ヒロオも住んでいた“ときわ荘”での切磋琢磨した漫画家集団の青年時代があったり、大学には堂々と“マン研”があったり、我々読者が真似て描いたりせっせと読み続けてきた結果ともいえるのではないか。日本が誇るアニメ文化の土壌は我々の少年期の昭和30年代に築かれたといっていいんじゃないかと思う。
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小6最後の図工で自画像を版画で彫る授業があった。出来上がった作品は卒業文集に全員載せるというわがクラスだけのユニークな試みだった。私は「ウマイなあ」と先生にノセられて担任の顔も彫らされた。出来が良かったので、さらに文集の表紙も彫ることに。さらに調子づいて勝手に彫ったのがこの2点。大好きなテレビ『マーベリック』の“ギャンブラー”ジェームス・ガーナーと『サンセット77』のロジャー・スミス。46年分のインクのしみ込みようがスゴイ。 |
卒業文集に載った、私が彫った担任の伊東淳先生。ズーズー弁の残る素朴で素晴らしい先生だった。 |
マンガに夢中の頃、マンガのようにとてつもなく面白い集団が現れた。クレイジー・キャッツだ。59年にフジテレビが開局と同時に『おとなの漫画』というコントの帯番組を月〜土のお昼の5分枠でやりだし、何故か、我々兄弟もよく見ていた。といっても平日は学校があるから、記憶にあるのは、土曜日か夏休みや冬休みのときだろうか。「作・青島幸男」とナレーションが入り、裏方がフィーチャーされるのが斬新だった。他に、青山浩、河野洋や、黒いかばんを脇に抱えたトボケた味の城悠輔といった放送作家が日替わりでコントを書いていた。 そして毎週日曜の夕方、家族揃って見ることになる『シャボン玉ホリデー』が始まる頃(日本テレビ、61年6月)には一気に人気ギャグバンドとなり、「スーダラ節」(61年8月発売)が大ヒットしてからは植木等が“無責任男”として昭和の日本を代表するタレントになる。見るからにおじさんだしカッコイイというわけではないけどオモシロイ。今のお笑い系と同じような感じか。レコードを買うまでには至らなかったが、出演するテレビは片っ端からチェックし、どこで植木等が「お呼びでない」をやるのかワクワクして見た。
今だとノヴェルティ・ソングと言うのだろうが、当時は“冗談音楽”と呼んでいた。“冗談音楽の王様”と称されたアメリカのスパイク・ジョーンズ(&シティ・フリッカーズ)を真似て、“フランキー堺とシティ・フリッカーズ”が出来、そのバンドにいた植木等、谷啓、桜井センリがハナ肇と合流してクレイジー・キャッツになったわけで、“冗談音楽”は最初からお手の物だった。 デビュー曲の「スーダラ節」でいきなり大ブレイクし、その後も次々とヒットを飛ばすが、何と言っても一番は「ハイそれまでヨ」だ。初めて聴いた(見た)時の衝撃は忘れられない。洋楽にもよくあるような、例えば「ポエトリー・イン・モーション」のようにバラード調で始まり途中からテンポアップしノリノリになる手法なのだが、植木等はムード歌謡のフランク永井のような美声で歌いはじめる。「おや、こんどはまともな歌をうたうのか」と思わせておいて、「♪てなこと言われて〜」からロック調のノリになり舞台狭しと暴走しまくり、最後に昇天してしまう。これには感動した。出だしの「♪あなただけが生きがいなの〜」のところで植木等の歌の上手さを知らしめることにもなり、ただのコメディアンやギャグバンドとの違いを見せつけることになったのだ。何度見ても飽きが来なかった。
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『スーダラ節』 植木等
名コンビ、青島幸男作詞/萩原哲晶作曲の第一作。このコンビで昭和の無責任時代を築き上げる。それにしても、けったいなオッサン軍団としか思えないジャケ。 |
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『ハイそれまでヨ』 植木等
本来A面は「無責任一代男」。
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アメリカでの有名なノヴェルティ・ソングは何故か60年前後に集中している。テレビ映画『ローハイド』でカウボーイのピート・ノーラン役をやっていたシェブ・ウーリーが58年に「ロックを踊る宇宙人」を全米1位にしている。同じ年にデヴィッド・セヴィル「ウィッチ・ドクター」も1位、同年デヴィッド・セヴィルはチップマンクス名義で「チップマン・ソング」をやはり1位に。いずれの曲もテープ操作でヴォーカルを細工している。ビッグ・ボッパーの「シャンティリー・レース」が6位。59年にはコースターズ「怪漢チャーリー・ブラウン」これは2位。そして60年はハリウッド・アーガイルズの「アリー・ウープ」1位、ラリー・ヴァーン「ミスター・カスター」1位。ここら辺の曲は当時日本ではまったく知られていなかった。言葉が分からなければ冗談ソングの中身も分からないから当然かもしれない。
「シャンティリー・レース」のビッグ・ボッパーは59年2月にバディ・ホリーやリッチー・ヴァレンスらロックンローラーとともに飛行機墜落事故で他界してしまったが、死ぬ前にJ.P.リチャードソン名義で「ランニング・ベア」を書いていた。この曲はジョニー・プレストンが歌い全米1位(60年1月)に輝く。争うインディアンの部族間に生れた恋愛をテーマにした「ランニング・ベア」だが、ノリ的にはノヴェルティ・ソングの臭いがプンプンする曲だった。日本でも「悲しきインディアン」と題されいろんな歌手にカバーされたが、個人的にはジェリー藤尾がテレビで歌った(多分『ザ・ヒットパレード』)ヴァージョンが記憶に残っている。イントロのインディアン・コーラスに合わせた“振り”がサル顔ジェリーにピッタンコだった。
ジョニー・プレストンは「ランニング・ベア」のあと、ノリのいい「恋のゆりかご」(7位)というポップ・チューンをヒットさせた。アク抜きのR&Rというか典型的な60年代ポップスというか、この曲は大好きだった。「ランニング・ベア」の大ヒット後の待望のニュー・チューンでありながらあまり日本人にカバーされなかったから余計に好きになったのかもしれない。
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『ランニング・ベア』 Cradle Of Love ジョニー・プレストン
このジャケはプロモ写真を切っただけ? タブロイドだか雑誌だかを読んでいるジョニー・プレストンの顔がよくわからないからヒットしたのかな。 |
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『恋のゆりかご』 Cradle Of Love ジョニー・プレストン
ほら、ルックスはオジサンそのもの。「ハイそれまでヨ」の植木等も同じようなものだが…。日米同時代がよく分かる。 |
この頃唯一日本でもヒットしたノヴェルティ・ソングは、ご存知ブライアン・ハイランドの「ビキニ・スタイルのお嬢さん」だ。当時は普通の青春ポップ・ソングと思っていた。ブライアン・ハイランドはこの歌の大ヒットの余韻のなか61年に来日するが、それに合わせてこの曲の二番煎じのようなイントロ&アレンジの「ベビー・フェイス」(元は1926年の作品)を日本向けにシングル化した。我々兄弟はまんまとレコード会社の攻略にひっかかりまっさらのオリジナル曲と思い「ベビー・フェイス」を買ってしまった。まあ好きだったから良いんだけど。ちなみに最近テレビCMで流れている「ベビー・フェイス」はブライアン・ヴァージョンを元にしている。
そのほかにも、来日した歌手にありがちだった日本向けシングルとして「16個の角砂糖」や「オンボロ・カーでスッ飛ばせ!」「気まぐれデイト」など地味ながらヒット曲を出した。 “胸キュン”のバラード「シールド・ウィズ・ア・キッス」(62年、全米3位)は日本ではヒットしたという記憶がないが、後に「涙のくちづけ」というタイトルでレターメンのヴァージョンが日本ではヒットする(69年)。
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『ビキニ・スタイルのお嬢さん』 Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polka Dot Bikini ブライアン・ハイランド 例によって諸君征三郎さんが沢山ジャケを提供してくれた。初めてビキニの水着を着た女の子の羞恥心を描いた微笑ましい?歌で全米No.1に。 |
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『いとしのローズマリー』 Rosemary
ほら、ルックスはオジサンそのもの。「ハイそれまでヨ」の植木等も同じようなものだが…。日米同時代がよく分かる。 |
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『16個の角砂糖』 Sixteen Cubes Of Sugar
オールディーズでよく使われる数字“sixteen”とスウィート・ポップスを象徴する“sugar”をタイトルに置いたなかなかのポップス。なのに本国では無名曲。伊東ゆかり、丘優子、パラキンの佐野修など日本語カバーも多いが、オリジナルの良さが生かされなかったためか、それぞれみんなB面扱い。それにしてもこのジャケ、珍しくマトモなのにアーティスト名がどこにもないゾ。 |
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『オンボロ・カーでスッ飛ばせ!』 Lop-Sided Over-Loaded, Crazy Little Car
コミカルな楽しい歌だが、イントロの女性コーラスはまたしても「ビキニ・スタイルのお嬢さん」の“三番”煎じ、これはやりすぎだろう。 |
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『気まぐれデイト』 Every Other Night
いずれも日本向けシングル。他にも結構いい曲を歌っている。 “The Joker Went Wild”“Ginny Come Lately”などはなかなかの名曲。70年にはあのデル・シャノンがプロデュースした「ジプシー・ウーマン」が全米3位の大ヒットでカムバックした。 |
ノヴェルティ・ソングはその後も61年にイギリスの“スキッフル男”ロニー・ドネガンの「ダズ・ユア・チューインガム・ルーズ・イッツ・フレイヴァー・」5位、62年にボビー・“ボリス”・ピケットの「モンスター・マッシュ」(1位)、レイ・スティーヴンスの「アラブのアハブさん」(5位)、パット・ブーン「スピーディ・ゴンザレス」(6位)、63年ロルフ・ハリス「悲しきカンガルー」(3位)と続くが、日本では知名度のあるパット・ブーンものしかヒットしていない。「悲しきカンガルー」も日本ではロルフ・ハリスのよりも、パット・ブーンが「スピーディ・ゴンザレス」の続編のような雰囲気でカバーしたヴァージョンがヒットした。
というように、日本では歌詞の内容が伝わらないので“ノヴェルティ・ソング”というジャンル自体がなかった。だったら日本の“冗談音楽”まで無理矢理“ノヴェルティ・ソング”などと昨今呼ぶ必要はないのにと思う。
※印 画像提供…諸君征三郎さん
2008年8月6日更新
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