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第9回「オトナが信じられない!」の巻 串間努


 新聞に寄りますと!

新聞見出し

 学童を輪禍から守る・緑のおばさん・が1日夜、麻薬の密売で東京・淀橋署につかまった。新宿区東大久保、無職、S(36)で前科2犯、本人も麻薬中毒患者。警察や教育関係者から・緑のおばさん・の採用の仕方がルーズだと非難の声が高い。
 調べによると、Sが麻薬の密売をしているとの聞き込みから、淀橋署では1日、家宅捜索して、25000円で買い入れたヘロイン5グラムをみつけたもの。Sは10年前から麻薬を売っていた。33年に夫が麻薬売買でつかまり、服役してから生活に困まり、夜の女やグレン隊に密売をはじめたという。34年11月、・緑のおばさん・が発足すると、生活費と麻薬代ほしさに新宿区天神町で旗をふっていた。学校の話では、家が近いので通学時と下校時しか姿をみせず、自宅に帰って日に1本の麻薬を打っていたことを全く知らなかったし、無断欠勤が多いのは複雑な家庭事情によるものとむしろ同情していたという。
 ・緑のおばさん・は45歳以下の未亡人や、夫が働けない家庭の主婦を救済する目的で都労働局がはじめたもの。出先職安で簡単な身体検査と米殻通帳による身元調べを行なうだけで、学校へ回すので、思わしくない人が来ても泣きねいりだと、学校側の不平もあった。
 今度の事件は都労働局が教育局と事前に十分な打ち合わせをしなかった欠陥が現われたものとして、これからは選考をきびしくするなどの対策をたてると同局ではいっている。また新宿職安では当分・緑のおばさん・の就労を拒否する手続きをとった。(略)
(朝日新聞/昭和35年10月2日)

「緑のおばさん」

「緑のおばさん」という存在

 緑のおばさんが、黄色い横断旗を振りながら通学路で、ドライブスルーのように運転手に覚醒剤でも売っていたのかとビックリしたが、『緑のおばさん』という職業そのものを利用したものではなさそうだ。ここの通学区では、急に馴染みのおばさんがいなくなって、子どもたちは不審に思っただろうが、小学生にヘロイン密売などわかろうはずもなく、親たちはしつこく質問する児童に「大人になったらわかる」とはぐらかしたに違いない。私も子どもの頃から何度も何度も「大人になったらわかるからいいの」と、生臭い話に首を突っ込ませないようにガードされてきたが、大人になったときには、それが何であったかすっかり忘れていたから意味がない! 大人になっても意味がわからなかったらイヤだから、答え合わせをしたかったのに。

 さて、私は緑のおばさんという存在は何で知ったのだろうか。おそらく図書館に全50何巻かが揃っていた「サザエさん」の単行本のバックナンバーでだろう。あの漫画は戦後まもなくから連載が続いているので、昭和40年代に新たに読者になった子どもには、東京都の戦後生活を体感していないと理解できない部分がある。「蠅取りデー」や「みのべかはたのか(美濃部亮吉・秦野章の都知事選)」などだ。緑のおばさんも千葉にはいなかったので、その存在を知ったときは横断歩道で旗を持っている、親・教師以外の大人と接触できるのがうらやましかった。私たちの通学路の横断歩道は無人で、ただ旗入れが置いてあり、横断旗をこちら側から持っては、向う側に渡ってまた旗入れにセルフサービスで差すという方式だった。雨に濡れないように防水されたビニールの旗はみんなの興味を引き、何度も補充されては数日でなくなってしまう。新しい旗が補充されると「今日、旗があったぞ」と情報が飛び回り、背中に差しては赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」の登場人物を真似して「ハタ坊だジョー」といいながら走りまわるのだった。そのうち予算がなくなったのかいつまで経っても旗が来なくなり、高学年になったころには交通安全の標語と子どものイラストをあしらった旗入れが、野ざらしとなって朽ち果てていた。

 そういえば「ウルトラマンタロウ」(昭和48年放映)に出てきたウルトラの母は、人間の姿をしているときは、ペギー葉山扮する名なしの緑のおばさんだったが、全国の学童は意味がわかっていたのだろうか。
 緑のおばさんという制度は昭和34年11月19日、通学する児童を交通事故から守るための学童擁護員制度が開始したことに始まる。東京都労働局が、失業未亡人を救済するための対策事業として考えたのだ。学童の安全のため、交通の激しい道路への配置を計画したが、当初は警視庁から「経験も知識もないおばさんの交通整理はかえって危険」という声があり、計画を練り直し警察署で講習会を受講させるなどして、発足にこぎつけた。緑の上っ張りに黄色い腕章をつけ、「横断」と書いた黄色い旗を振っていた。現在は町内会などで分担されているところもあるし、正規の区職員のところもある(一人あたりの平均収入は、700万円から800万円にもなるといい、不況のこんにちでは用務員さんとともに「教育リストラ」で見直しが検討されているところも多い)。日本以外でもイングランドでも通学路にある横断歩道に、スクールクロッシングパトロールという警備員を配置しているという。

 戦後はいまのように婦人の働く職場が多くない。そのため、戦争未亡人や失業婦人のために、授産所をはじめさまざまな社会福祉的な就業支援が行われていた。大阪では、傷痍軍人や戦争未亡人の救済のためパチンコの換金事業の組合を作って、彼女たちに任せたケースもある。鉄道弘済会売店、街頭の宝くじ売店、競輪場や競艇場の売店なども、もともとは労災で夫を亡くした婦人、障害者の母親や戦争未亡人の生活安定のために確保されてきた部分もある。求職婦人に職場を与え、かつそれが公共の福祉や商業上の利益を産むという、両者にとってメリットのあるシステムが模索されていた時代である。そのような流れのなかで緑のおばさんは生まれ、子どもたちへの交通安全教育をになっていた。

 そして、公的な教育と警察のイメージによって、聖職者に近いイメージをもたれていたため、麻薬密売がショッキングな出来事として新聞にとりあげられたのである。昭和40年代頃までは、子どもを善導する職業に就いている大人は襟を正して、子どもに恥じることのないよう自らの日ごろの素行に気を配るべきだという、「世間の目」的な社会的制裁が生きていた。もちろん当事者たちは社会的な負託に応え、誠実に社会奉仕のために心を砕いていた。

 子どもたちもまた、大人というのはいつも清く正しく美しい指導者だと信頼し尊敬をしている。そんな醇風美俗があった時代だった。

書きおろし


参考ページ 
懐かしデータで見る昭和のライフ 第8回 ぼくたちの「交通戦争」


2003年6月24日更新
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