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第10回「ビンボー感覚」の巻 串間努


 新聞に寄りますと!

新聞見出し

 夏休みも終りの31日夜から1日朝にかけて、家事に追われて宿題ができなかったなど、いずれも家の貧しさと学業との板ばさみに悩んだ少年7人が、つぎつぎに東京駅で丸ノ内署員に保護された。調べによると滋賀県伊香郡中学2年S君(14)大阪府池田市中学2年F君(14)大阪市東淀川区高校1年A君(16)長野県北佐久郡高校1年B君(16)名古屋市瑞穂町高校1年C組(16)埼玉県北足立郡草加町中学3年D君(15)福島県会津若松小学校5年E君(11)の7人。
 S君は家が農家で貧しく、手伝いに追われて宿題がたまったので30日朝宿題をやっていると、母親から「仕事もしないでなんだ。出て行け」としかられ、かっとなって米二斗を持出し2500円で売りとばして家出、31日夜8時ごろ東京駅構内をうろついているところを保護されたもので、プロパリン一箱持っており金がなくなったら自殺するつもりだったといっている。
 またF君は父親が戦死、母子6人暮しでキャンデーや納豆などを売っていたが、学校の成績は悪くなり、宿題もたまる一方なので、同じく31日夜「学校へ行くのはいやだ。東京で働く」と書置きして家出、同夜9時ごろ同署員に保護された。その他の少年たちもいずれも同じような動機だと述べている。
(朝日新聞/昭和30年9月1日)

ビンボー少年の憂鬱

ビンボー少年

 いやいやながら学校の宿題をしているのに親から「仕事もしないでなんだ。出て行け」といわれれば、子どもは怒ります。当然だ。
 カッとなったため米を売り飛ばして睡眠薬のブロバリンを買ってしまうというのが昭和30年代という時代を現している事件である。いまでは親が子どもの夏休みの宿題を手伝っている。

 高度経済成長で所得が増え、高校進学が当たり前の世の中になるまで、伝統的社会では、子どもは家の労働力であった。夫婦を単位とした核家族化が進んでいない大家族主義の下ではいたしかたない。なにしろ満足に義務教育に行けない子どももいたし、学校から帰ってきても風呂の水汲みなどの手伝い、年長者は弟や妹の子守りをやらされ、近所の子と遊ぶことさえ、ままならなかった。都市部の子どもが花売り娘やピーナツ売り少年をやるのなら報酬もあるだろうが、農山村、漁村では家の手伝いを無報酬でやるのは当たり前、家事・労働を通じて躾や知識、処世術がたたき込まれていった。家の手伝いならまだマシで、戦前は小学校卒業後に丁稚奉公に出され、他人の家で起居して働き、昭和30年ころまでは集団就職列車で上京して親に仕送りをしていたものである。そういう時代背景があるからこそ、人は山本有三の「路傍の石」の山田吾一少年に涙し、NHKドラマ「おしん」に感動するのだ。いまは子どもは情緒的存在で、親の投資対象となり逆に親が仕送りをしている。

 貧しさというのは相対的なものだ。国民全員が飢餓状態でバラックに住んでいた終戦直後に、継ぎをあてたズボンを履いていても誰も気にとめない。しかし豊かな時代になって継ぎあてズボンやランニング一丁で歩いていると奇異の目で見られる。同じものでも横のつながりの比較(社会集団内)によって、肩身が狭くなったり、縦の比較(時系列)によってそうでもなかったりと、評価が異なる。それが貧乏感覚だ。と、私は思う。
 昭和39年の東京オリンピック好景気で日本中は幸せそうにみえたが、影の部分ではまだまだ経済成長の恩恵に浴していない、取り残された国民が地方にいた。戦後直後と比べて貧富の差が拡がっていったことは見逃せない。地方では特に、子どもは労働力であり、農繁期に学校を休む子どもの家庭訪問をすると教師は追い返されたという。学校に行く経済的余裕がないのだ。昭和40年に学力が全国最低レベルであった岩手県では「教育振興運動」が起こり、まずみかん箱の机を子どもに持たせることから始まった。

 相対的な貧乏は罪である。土屋隆「貧困家庭の子どもに対する教師としての取扱い」によれば、貧困家庭の子どもは一般に、社交性、明朗性に欠けすべてにおいて消極的だという。雨が降ると傘がないので学校に行けないし、家の手伝いのため同級生より勉強時間が少ないので学力も劣る。栄養状態が悪いため不健康で、眼病(やに目)や耳鼻科の病気(耳だれ・ちくのう症)、皮膚疾患(しらくも・はたけ)、回虫を持っている場合が多い。
 着ている物や弁当に常に引け目(ここで横の比較が出る)を感じてコンプレックスを持っている。お金がないので欲しいものどころか学校で必要なものさえ不足がちで、心理的要求が満たされないため、満足感がなく、のびのびとした気分にひたることができない。これは成長するに従って生活環境も広がってきて、思春期を迎えると異性の眼を意識し、ますます貧困意識は強くなってしまう。私もクラスのなかで1軒だけ家庭電話がなかったので、新学期にクラスの住所録を配布する際がいやだった。「先生、串間君のところ、電話番号が抜けてます」親切な子はどこにでもいて、貧乏人を困らせる。

 遠足のおやつが「100円まで」と決まっていたり、事前検査するほど服装まで統制されていたのは、ひとつには貧乏な子どもがいたからという配慮である。天井を設けなければ富めるものは際限なくお菓子や果物を持ってくる。旅費がないため遠足や修学旅行に行けないというより、破れたシャツと穴の空いた靴で参加しなければならないのが身を切られるほど辛いのである。みんながサンドイッチやゆで卵のお花切り、タコの赤ウインナーを弁当に持ってくるなかで、新聞紙に包まれたにぎりめしを食べるみじめさといったら!
 遠足当日病気になって不参加になったお友達が可哀想だ。みんなでお金を出し合って旅行のお土産を買っていこう。どうして急に欠席したのか。クラスのなかの誰が、息をひそめて遠足の日が通り過ぎるのを待っている子どもの心まで気配りできただろうか。

 貧しかった、何もなかった、ともすればマイナス情報は当事者からも隠されがちだ。私たちは、「懐かしの時代」と好意を持って顧みられる昭和30年代〜40年代をテーマにした書籍・ムックを読むとき、あの時代が高度経済成長の右肩あがりの好景気で、国民すべてが豊かになった時代であるなどというイメージを持たされたり、錯覚をしてはならない。それらの書物は東京など大都市から発信されたもので、地方やへき地の視点が欠落しがちであるからだ。東京近郊の人々は勝手なもので、戦前は、文化人やインテリは特高に弾圧された非民主的で暗黒の時代、戦時中は空襲を受け命からがら、戦後は瓦礫のなかから立ち上がったなどと自分本位でしか物語を語ろうとしない。セピア色というステロタイプの「戦前」にも明るさはあっただろうし、地方のなかには空襲も受けず、食糧もあった地域もあるはずだ。「別に戦時中に苦労はなかった」ということは言えない状況にあるようにみえる。非体験者としては戦争の愚かさ、命の大切さはきちんと教えてもらいたい。しかし特定の部分を増幅して負のクローズアップをしてきた部分もあるのではないか。「田舎では学童疎開でいじめられた」「百姓は着物を持っていかないと米に替えてくれなかった」などと地方や農業従事者へのまなざしがつめたいものが目立つ気がするのは私だけだろうか。都市からの闖入者に対する彼らの言い分もあるだろうが口は重い。

書きおろし


2003年8月4日更新
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