メーカーが大規模な営業をかけたのか、昭和四四年頃、千葉市の飲食店に一斉に冷水機が入ったような記憶がある。ラーメン屋のカウンターの上に置かれたそれには「セルフサービス」と書かれ、家では柄杓で汲み置きの井戸水を飲んでいた私には、いくらでもレバーを押して汲んでも良い、冷たい水が嬉しかった。当時は家庭的にも社会的にもクーラーはあまりなかったので、「涼」は価値あるサービスであったのだ。
さらに行き付けの、店頭で栗を売っている薬局の奥にもなぜか冷水機が備えつけられ、なんとそれはレバーを押すと「麦茶」が出てきた。私の家では麦茶に砂糖を入れていたので、プレーンなそれは間抜けな味に思えたが、噴水ジュースだって一〇円するのに、タダで街中(まちなか)で麦茶が飲めることが驚きだった。今だったら紙コップだろうが、当時は青い透明プラスチックコップで飲み回すようになっていた。清潔志向の若者には真似できめえ。
ところがもっと驚く「タダ」があったのである。昭和四六年五月(※)の大火災で焼失した田畑百貨店の斜(はす)向かいにセンキヤ本店という千葉市で有名なお茶屋さんがある。そこでは夏にカウンターに、なんという名前なのか知らないが噴水ジュースの自販機を小型にしたような冷水機を置き、アイスグリーンティーをタダで振る舞っていたのだ。なにしろグリーンティーはやたらと甘い。甘さと冷たさに価値があった時代だったから、いつもセンキヤで一番安い「松緑」という番茶を買っていた私たち貧しい親子にはまさに甘露の水であった。
「あの機械は『ドリンクチラー』というんですよ。グリーンティー拡販のため一〇〇台くらい用意して、貸出したりしました」(玉露園食品工業株式会社取締役、F氏)
私の思い出を聞きながら、F氏は冷たいグリーンティーを出してくれた。
同社が日本で始めてグリーンティーを発売して、もう七〇年を超える。
創業者の藤田馬三は大正六年、亀戸にお茶の販売業を個人開業した。緑茶に代わる飲み物はないかと考えた馬三は、昆布と鰹節のだし汁のうまみを利用する事をおもいつく。それを翌年、粉末にして「こんぶ茶」を完成、ミルクホールを中心に販売した。しかし、昆布茶は冬場によく売れる商品だった。夏枯れ対策を考えなくてはならない。そのころの夏はクーラーもなく、熱い日本茶の消費も落ちる。そこで今度は夏の麦茶に代わる飲み物の開発を目指し、昭和五年に宇治の抹茶を原料に「宇治グリーンティー」の完成をみた。
今のように喫茶店も多くない時代、販路は茶店(ちゃみせ)が進化したような甘味喫茶と、ミルクホール。「宇治こおり」(これは同社が命名した)の氷蜜にも利用されたという。そういえば、「宇治金時」というかき氷を食べてから死にたいといった作家がいたなあ。誰だっけ。
大八車を引いてお得意先回りをしたが、なにしろ初めて登場する「宇治こおり」という名前から妙なもの(虫です)を連想する向きもあったという笑い話も残っている。
「抹茶とグラニュー糖が原料で、いまも変わっていません」
グラニュー糖を使うのは湿気にくいため。また、喫茶店などお店で大量に同品質のものを出すとき、いちいち茶筅(ちゃせん)で掻き混ぜてはいられない。グラニュー糖ならサッと溶けるのだ。
抹茶はカリウムなどのミネラルが豊富で、ビタミンCやB群も豊富で美容や健康にいい。添加物もなく、お茶の葉そのものを挽いて粉にしてあるため、効率的に有効成分を摂取できる。
色が変わってしまうため缶飲料にはできないが、「疲れがとれる」と、今も根強いファンが多いそうだ。
「そのグリーンティにミルクを掛けてみて下さい。そうです。山に雪がかかって見えるでしょう」
グラスの中に登場した風雅を愛でつつ、私はグイっと飲み干した。三〇年前の千葉の味が喉を伝わっていった。
(※)当初は昭和四四年と記述しておりましたが、読者の指摘により、著者の記憶違いであることが判明いたしました。お詫びするとともに訂正させていただきます。串間 努(平成十八年五月二七日)
●毎日新聞を改稿
2003年7月12日放送開始
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